理念の礎

理念には礎は必要。基本的に何を大事にするかという質問である。この礎は複合的である可能性は先から排除できない。例えば、真、美、愛を掲げたら、それは礎になるが、この三つは違うし、お互いに矛盾する場合もある。しかし、このような礎はなければ、始まることさえできない。

私の政治理念の礎を意志の尊厳とする。

これはある意味論じることはできない決意である。これは基本価値観であるので、反論として別な価値が掲げられても、反応はただ単に「意志の尊厳と合わないので、退けるべきである」ということになる。つまり、裁判所のような論争は相応しくない。礎の上に築く具体策についての議論はもちろん可能だし、望ましい。しかし、礎について違う。議論ではなく、説得である。つまり、礎の魅力を見せて、他人の賛同を求める。自分に対しても、この礎を選ぶべきであると納得させることも重要である。自分の判断を疑って、確認するのは極めて重要だ。

魅力を見せる方法は二つある。一つは礎から発生する具体策を見せて、その具体策の魅力を借りる方法だ。この方法は、後程使いめくる。もう一つは、礎自体を見せて、魅力的な側面を指摘する方法である。こちらの方法は抽象的であるが、ここから始めないと他の人は具体策まで一緒に歩いてくれない可能性は高いのだ。だから、意志の尊厳の魅力を先ず見せる。

「意志の尊厳」というのは、何だろう。

誰にも、自分の人生の道を自分で自由に決めさせて、実現しようとする行動を妨げないで、応援することである。

この理念の一番の魅力は、誰でも自分はこう扱ってほしいことである。個人的な自由を訴える人は現在多く存在するがそのような人は意志の尊厳を受けたいのは明らかである。では、個人主義に反対する人はどうだろう。同じである。個人主義に強制されたくない、つまり、自分で自分の人生の道を決めさせて欲しいのである。そして、共同体を大事にしようとすれば、阻止に遭わず、共同体の絆の強化に社会からの応援が欲しいのではないか。奴隷になって、他人によって全ての決断をしてもらいたい人も同じだ。奴隷になることを選ばせて欲しいのだ。

勿論、全ての政治理念と合うとは思わない。ただし、その理由は、他人の道を自分で選ぶ政治理念であるからだ。誰もこの道を歩むべきであると主張する理念は、意志の尊厳に違反する。

全ての人間には一つの正しい道があると主張すると、誰が正しい道を選ぶのか。選ぶ資格はどこから来るのか。神から来ると言うのだろう。その場合、神にはその権利がある根拠はなんだと訊き返す。力を持っているからといって、このような権利を持つとは限らない。過半数の投票は更に適切な根拠にならない。意見を積み重ねても、ある道を強いる根拠にはなれない。

つまり、自分にはこの自由が欲しいが、他の人に許さないと言わない限り、この礎を容認しなければならない。自分を特別とする理由を見せようとする人もいるが、今まで見せられた理由は一つも認めるべき性質を持っていない。

現実問題を考えても、結論は同じである。いつも、他人に権力が握られたらどうなるかを考えるべきだ。その場合、自分の意志を尊厳してもらいたいはずだから、政治的な構造として、意志の尊厳を築くべきである。

勿論、人の意志の間に矛盾や軋轢が発生する。だから具体的な政治は明白ではない。具体的な実現に向けて、考察するしかない。その考察こそ、この随筆の目的になる。

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  • 「医者になる」 難病と闘い、夢を追う18歳少年

    「一時は自殺まで考えた」。起き上がれないほどの慢性疲労、かすみがかったような頭の中、意識障害、吐き気に腹痛…。小学生の頃から幾重にも襲いかかる原因不明の体調不良に苦しんできた少年が、ようやく病名を突き止め、治療を続けながら、「医者になる」という夢に向かって歩き出した。(鈴木久仁子)

     京都府長岡京市在住で、神戸市東灘区出身の藤田春満さん(18)。病名は「脳脊髄液減少症」。交通事故や転倒、強い衝撃で髄液が漏れるなどで起きる。多くの患者は自分の血液を注射してふたをする「ブラッドパッチ」を施すのが一般的という。

     ところが、藤田さんは、思い当たるような強い衝撃がなかったことと、主症状の頭痛がほとんどない珍しいタイプだったことから、この病気の診断がつかず、長年原因が分からなかった。何人もの医者の診断を受け、「最後の可能性」と、明舞中央病院(兵庫県明石市)脳神経外科での検査で、髄液が漏れていることが分かった。発症からすでに10年が経過し、慢性化していた。

     「一番悔しかったのは大好きな勉強が続けられなかったこと」と藤田さん。起き上がってもすぐに倒れ込み、吐き気で給食も食べられないこともあった。小、中、高校と一度も修学旅行に参加できなかった。それでも、わずかに調子のいい時には本を読み、勉強に励み、中学時代は偏差値90を維持していたという。

     悪化する病状に全日制高校を諦め、通信教育で卒業資格を取ろうとも考えた。しかし、全国有数の進学校・灘高校への憧れは捨て切れず、「記念に」と受験し、見事合格した。

     入学後も、体調は芳しくなく、教室では強い倦怠感から寝てしまうことも少なくなかった。病名が判明したのは高校1年の時。ブラッドパッチによる治療が始まった。

     最初の2回は、免疫系統や自律神経系統に少し改善は見られたが、普通の生活にはほど遠い状態だった。一番望んでいた、霧がかった思考からは解放されずに自暴自棄に陥った。

     「どうせ治らないなら死んだ方がまし」と病院のベッドから窓に走りだしたこともあった。頸椎への3回目のブラッドパッチが功を奏し、「徐々に脳が回復してきた」という。

     今春、灘高を卒業した。受験勉強はかなわず、友人が東大、京大と旅立つ光景はまぶしかった。それでも病と闘いながら懸命に通学した高校生活を「多くの先生や友達に恵まれた」と振り返る。

     現在はリハビリと同級生から譲り受けた参考書を手に、体調と相談しながら過ごす日々。「勉強できる」喜びをかみしめ、いつか大学受験も果たしたいとの思いを強くする。

     最近うれしかったのは、初めて友人と外食ができたこと。これまでは体調が悪くて遊びには出られなかった。「一緒に食べたラーメンは格別」と笑う。医者になることが夢といい、「患者の気持ちの分かる医者になりたい。そして、同じ病気の患者には『決して諦めないで』と伝えたい」。
    https://www.kobe-np.co.jp/news/kobe/201805/0011236557.shtml

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