カテゴリー政治理念

転嫁の基本

転嫁というのは、自分の過ちや責任を他人に押し付けることを言う。社会の中の行動でよく発生する現象である。例えば、公害は著しい例であろう。企業が利益を得るが、その利益を得るために必要だった損害を、別の人に押し付ける。基本的な立場として、このような転嫁を禁じる。自分の行動の負担を全て自分で背負うべきである。もちろん、他人に背負ってもらうこともできるが、それはその人が同意する場合に限る。勝手に利益を独占新柄負担を拡散するのは良くないのだ。しかし、これはものすごく繊細で難しい問題であるから、しばらく論じたいと思う。 まず、なぜ転嫁禁止を理念とするのかについて説明する。...

強制と促進

国家には強制力がなければならない。しかし、強制的に住民の自由を制限する行為を慎重に考えるべきである。意志の尊厳に考慮して、他人の自由と可能性を保護するためにしか自由を制限しないほうが良い。というより、この範囲を逸脱すれば、国家の権力の濫用であると言いたくなる。 前にも指摘したが、自由と可能性の保障の範囲は意外と広い。それでも、無限では無い。強制以外の促進を認めるべきである。 促進は、ある行動を公的に褒めたり勧めたりすることだけでは無い。ある行動をよりやりやすくしたり、やりにくくしたりする行為も入っている。例えば、タバコ税は促進の範囲に入る。強制的では無い。タバコを吸いたい人は吸える。しかし、値段が高くなるので、経済的な理由で吸わないこととする人もいるのでは無いか。このような行為は、政権が取るべき場合もある。 大別したら、種類は二つだろう。...

参政権

国家の行政は、どの形を取るべきなのだろう。住民の意志を尊重する善意の独裁者でも良かろうか。 そうは思えない。国民の政治参加は必要不可欠である。 先ず、理念自体を考えれば、国民の意志を政治決定から排除することはそもそもおかしい。意志を尊重するのに、無視する。如何なものか。 基盤として、民主主義を導入しなければならない。民主主義の有効な役割は、国民の信頼を失った政権を無血で排除することだと私は思う。自分の一票で立候補した人の一人に投票することだけで、国民の意見を行政に届けられるとは思えないし、将来の道を選ぶために鈍すぎる手段でもある。しかし、もう信頼できない政権を平和的に倒すために、最適な方法だろう。この民主主義は最終的な審判であると言えよう。政権の日常的な活動に細かく影響を与えないが、政権が国民の意志から大きく逸脱すれば、政権交代を強制的にさせられる。...

意志の実現

意志の尊厳というのは、心の中でなんでも目指しても良いという意味に留まらない。実世界に実現する権利も含まれている。実現させなければ、意志を本当に尊重しているかと問われるが、原則として意志を尊重するために実現を許すべきであると述べたいのである。 国家の役割から見れば、これは重要な概念である。先ず、歴史的に謳われてきた自由はとても重要である。国家がある思想を、又はある宗教を禁じたら、意志の尊厳を深刻に侵す。このような自由は確保されていなければ、意志の尊厳を表現することはできない。...

政治と倫理

意志の尊厳は、政治理念として掲げる。倫理の全てではない。 その理由は意志の尊厳の性質にある。つまり、意志の尊厳は、自分の行動についてほとんど教えてくれない。ただ、自分の意志を尊重するべきであることに留まる。しかし、倫理の役割は、簡単にいえば、何を選ぶべきかを教えることである。 意志の尊厳は倫理の一部になれる。他人に対する行動で、他人の意志を尊重すべきであると教える。この理念から、「殺すな」、「騙すな」などの規則が発生すると言えるだろう。しかし、倫理の範囲はそれよりはるかに広いのである。倫理は、行動の全てを対象とする。場合によって、このような行動なら倫理的なアドバイスはないと教えるかもしれないが、それは行動自体は対象外という意味ではなく、ただ倫理的な指示はないということである。意志の尊厳のアドバイスは、乏しすぎる。...

意志の範囲

「意志の尊厳」は聞き慣れていない表現がと思うが、「人間の尊厳」はよく言われる。私はなぜ敢えて珍しい表現を選んだのだろうか。 簡単に言えば、範囲を人間に限定したくないからである。 人間は皆意志を持っていると思うので、意志の尊厳は人間の尊厳を必然的に導き出す。しかし、人間ではないと意志を持たないと言い切れないし、意志を持てば、自分で道を選びたい気持ちもあるし、他人には選ばせる権利は見えないので、重要なのは意志であり、人間性ではない。 では、意志は何だろう。 意志は、自分の存在を意識して、知識などに基づいて自分の将来について計画を立てる能力だと思う。双方は重要だと強調したいのだ。 意識はなければ、主観的な立場はそもそもない。意識はなかったら、破壊しても誰も苦しませない。その破壊を主観的に経験する存在はないからである。例えば、パソコンには意識はなかったら、処分しても良い。...

理念の礎

理念には礎は必要。基本的に何を大事にするかという質問である。この礎は複合的である可能性は先から排除できない。例えば、真、美、愛を掲げたら、それは礎になるが、この三つは違うし、お互いに矛盾する場合もある。しかし、このような礎はなければ、始まることさえできない。 私の政治理念の礎を意志の尊厳とする。 これはある意味論じることはできない決意である。これは基本価値観であるので、反論として別な価値が掲げられても、反応はただ単に「意志の尊厳と合わないので、退けるべきである」ということになる。つまり、裁判所のような論争は相応しくない。礎の上に築く具体策についての議論はもちろん可能だし、望ましい。しかし、礎について違う。議論ではなく、説得である。つまり、礎の魅力を見せて、他人の賛同を求める。自分に対しても、この礎を選ぶべきであると納得させることも重要である。自分の判断を疑って、確認するのは極めて重要だ。...

動機

動機

この政治理念の随筆の中で、主に私に実現できない内容を語る。その上、この理念に基づいて政治活動を開始したとしても、実現できる見通しもないことは多い。ならば、なぜこれに時間を費やしているのか。...

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