惟神の道であれば、穢れと祭りの関係を考えなければならない。 基本は、祭りは穢れのない行動である。穢れのない場所で穢れのない人によって執り行われる。 産霊は祭りの中で確保できる存在ではない。祭りで促進するのは良いが、祭りがある戦略の一環に過ぎないと思われる。だから、祭りで主に汚れが気になる。 そのため、斎場を物理的に綺麗にするし、祭員を物理的に綺麗にする。そして、祭具などを適切な場所に置いておく。 汚れを避けるために、全てが適切な場所にいるのは重要である。その上、参列する人が皆そのように感じるのが重要である。つまり、適切は場所や所作を知っているし、目の前でその通りになっていることが確認できることは祭りに重要である。...
他人の穢れ
「他人」というのは、自分と結びを持っていない人を指している。そのような人の穢れをどう考えれば良いのか。 原則はすぐに言える。どの人でも、穢れはないように行動すべきである。惟神の道で穢れを忌み嫌うが、それは自分の穢れに限ったことではない。 但し書きが必要となる。 先ずは、他人の穢れを自然に忌み嫌うとは言い難いのである。自然な状態は、気にしないことだろう。他人は、結びを持っていない人だから、その人の穢れはなんで気になるのかと問われてもおかしくはない。 自然ではないとしても、自分の行動で他人に穢れを齎さないように気をつけるのを惟神の道の重要な一部としたいのだ。...
穢れへの対応
穢れは、本人が当然忌み嫌う状態であると論じた。そうすれば、対応は当然であろう。避けようとするし、万が一発生したら、なるべく早く直す。 簡単に言えるが、実践はさほど簡単ではなかろう。 気枯れの穢れを無くすために、自分の気力や体力を取り戻さななければならない。そのために、休んだり、治療を受けたり、リハビリしたり、運動や食生活や睡眠に気をつけたりする。産霊が衰えないように、健康を維持する生活を送るのも適切である。この場合、原因は外から来たか、自分の行動であるかは、関係ない。重要なのは、今の穢れを払拭することである。 何かが乱れたら、片付けたり、修理したり、掃除したりする。これで汚れの穢れがなくなる。...
穢れの本質と発生
穢れは主観的に悪質である。 要するに、穢れを負う人の立場から見ると、穢れを自然に嫌う。穢れを無くしたいのは当然な感情である。 まず、産霊の低迷を考えよう。それは、元気の無い、成長の無い状態である。病気などの状態を思い浮かばせる。このような状態を続いて欲しいと思う人はそもそもいないだろう。 そして、適切な場所を逸脱する穢れを考えれば、適切ではない状態を直したい気分は当然だろう。 では、この嫌われる状態はどこから発生するのだろう。まず、外から押し付けられる場合は少なくないだろう。例えば、インフルエンザに患ったら、それは産霊の低下と結びつくので、明らかに穢れになる。同じように、被災されたら、産霊が低下することもあるし、生活も関係も乱れるので、汚れの穢れも発生する。これを典型的な穢れと位置付けよう。...
穢れとは
神道では、穢れは重要な概念であることを誰も否めない。祭祀に先立ち、必ず穢れを除くために修祓を行う現象は象徴的であろう。しかし、穢れとは何かと聞いたら、答えはすぐに出ない。死は穢れであるとか、血は穢れであるなどと言われるし、延喜式に載っている大祓の祝詞には例があるが、「屎戸」や「母と子と犯せる罪」などには普遍性は欠けているようだし、「白人」自体を穢れとして解釈することは個人的に抵抗感がある。(現在神社で奏上される大祓詞からこの具体例は省略されているが、延喜式には記載されている。) 私の惟神の道では、穢れを肯定的な理想の反面としたいと思う。つまり、穢れは産霊や結びでの問題を指すこととする。...
最近のコメント