カテゴリー政治理念

日本の三大危機

現在の日本は、三つの危機に直面していると思う。 一、世界環境崩壊。 一、少子高齢化。 一、過疎過密化。 経済は危機ではない。回復する余地は確かに充分あるが、動いている。人手不足の問題は、少子高齢化と過疎過密化の副作用だし。 福祉予算の問題も、少子高齢化の副作用。 安全保障の厳しい環境は好ましくないが、危機には値しない。 他の問題も危機になる可能性を孕むが、まだ危機に至っていない。将来に危機になるかもしれない問題に対応するために眼前の危機を放置してはいけない。 当然、政治資金パーティーの報告書の記載漏れは日本の危機であるとは到底言えない。...

正当な国際環境

外交に基づく関与の目的は正当な国際環境を保護することであれば、その正当な環境の詳細を明らかにしなければならない。そうしないと、どういう行為が問題になるかは分からない。 その環境は、情報や物品や人間が円滑に国の間に行き来できる状態だと私は思う。 これで「自由」ではなく、「円滑」と書いたが、その違いを重視する。言葉遣いが人や場によって微妙に違うが、ここでの違いは次の通りだ。「自由」は、思うままに、何も支障はない状態を指す。一方、「円滑」は、思うままにはできないかもしれないし、乗り越えなければならない壁もあるかもしれないが、計画を立てて努力すれば、平和にできる状態を指す。そして、多くの場合、その障壁は高くないことを示唆する。...

関与の根拠

外交の行動で、何が第三国の関与の根拠になり得るかを論じている。今まで、言葉での批判が根拠になり得ないと述べた。言葉だけで批判して、貿易や交流を通常のままにすることは、矛先になる国の反発を招くかもしれないが、当事者の国の制裁の根拠にさえなり得ない。適切な反発はまた言葉であると言えよう。 言葉を超えて、優遇を撤廃することに、第三国の関与の根拠になり得ないとも論じた。相手国でも、優遇撤廃や言葉の批判以上の反発は不適切だろう。 一方、軍事的な侵略は関与の根拠になり得るとも述べた。 では、他の行為は如何だろうか。私は、他の行為は関与の根拠になり得ると思う。この記事で、それを論証するつもりだ。...

優遇の撤廃

この課題の冒頭で、言葉で他国をいかに批判しても、関与の根拠にならないと述べた。では、他の根拠にならない行動はあるのだろう。 その一つは他国に対して優遇を拒否することだと思う。 先ずは、これは関与であるかどうかを考えたい。通常の国際社会の行動は外交関係や交流を維持して、貿易を許可することだ。優遇を与えないことでこの通常の状態を損しない。だから、関与に値しないとも思えるだろう。しかし、優遇が長く続いてきた状態で、撤廃することで大きな打撃を与えることはできる。例えば、軍事同盟を結ぶのは義務でもないし、一般的でもない。明らかに優遇である。しかし、アメリカが日本との同盟を解除しようとしたら、大きな打撃を恐れて国家の行動を改める可能性は高いだろう。だから、関与に値する場合もあると言えるのではないか。...

非関与に基づく関与

外政に対する関与で、軍事侵攻は明らかに根拠になるし、言葉での抗議は明らかに根拠にならないと述べた。その間が難しくなるとも認めた。今回の記事で、関与の根拠にならない行動を指摘したいと思う。 それは、他国の行動に関与しない行動である。 ふっと見れば、これは当たり前だと思われるだろう。周りの国に迷惑をかけないことが制裁などの関与の根拠になるわけはないだろう。しかし、某国が悪質な行動を行っている場合、その国に対して何もせずに貿易や外交を続けることは良くないと思う場合は多かろう。例えば、北朝鮮に対する経済制裁を破れるのは良くないと言われる。 まずは、国連の決議があれば、重い意味があると思う。国連に加盟する国は、国連の決議に従う義務を背負うので、国連から離脱するか、従うかという選択肢だろう。...

関与の根拠

外国の行動に関与する根拠を考えれば、大別して外政と内政の根拠がある。つまり、他国への影響と自国民への影響が問題になり得る。根拠を論じる前提は、抗議することはいつでも許されることだ。しかし、外交の制限や制裁、又は軍事的な関与は原則として禁じられる立場だ。原則を覆して関与する条件を考えなければならない。 外政の場合、まずは複数の国の存在を認めるのは前提だ。国の一部が一方的に独立宣言を出しても、問題が外政の問題になるとは限らない。同じように、相手国がある地区を自分の領土の一部であると主張するからと言って必ずしも内政の問題になるとは限らない。国連の判断をどう配慮すべきかは論じるべき点であるが、曖昧な場合はあっても明白な場合は大半である。...

非関与の原則

外国の内政に関与しないことを原則とすべきだと思う。中国政府がこの理念を都合の良い時に強調するが、だからと言って間違っているとは限らない。だが、その理由は国の主権を尊重するからなどではない。...

外交の理念

外交には信念を持つのは重要であると多くの人が述べる。ただ国益を追求して、相手国の悪質な行為を黙認してはいけないと強調する。悪質な国を黙認するのは良くないことは明白に感じるが、実はこれは極めて難しい問題である。 まずは、「悪質な国」はどう言う意味でしょうか。刑法の違いで国が犯罪を認めるのは良くないと思ったら、大きな問題が発生する。アメリカで拳銃が憲法に保障された権利であることは周知の通りだが、日本に持ち込もうとしたら、違法になるし、アメリカ社会に悪影響を与えているのは明白だ。それだけではない。アメリカで治療薬として処方箋で入手した薬を日本に持ち込もうとしたら、覚醒剤所持として検挙されることもある。一方、日本で買った中学生向けの漫画をアメリカに持ち込もうとしたら、下手に選べば児童ポルノの密輸で逮捕されることも。(未成年者の裸が描写されたら、そうなる可能性がある。)...

三次元の倫理

正義に基づいて明白な行動の基準を得られなければ、どうすれば良いのだろう。行動をその瞬間の勘によって決めても、基準を設けたので、基準なしにはできない。そして、基準は何にしても、間違える恐れがある。それはどうせ正義には限られない問題である。その瞬間の勘でも、間違えることはある。 その解決策として、三つの基準を同時に利用する案を掲げる。 その基準は自由、慈愛、持続である。併せて、三次元の倫理と名付けよう。 自由は、すべての人が自分の行動や人生を自分で決める状況を指す。人の行動を拘束せず、制限せず、抑制せず振る舞って、幅広い選択肢から選べさせるように努める方針である。 慈愛は、人の幸福を願って、実現しようとする行動を指す。 持続は、永遠の将来までこのような行動や社会が続けるように今現在の行動を慎む方針だ。...

疑う正義

ユダヤ人を虐殺するのが正義に適わないことは、今になって誰も疑わないだろう。しかし、そう思った人はナチスドイツに限らず、ヨーロッパの歴史には多数いた。中世や近世に、ユダヤ人が(1000年以上前に)キリストを殺したので、当時のユダヤ人を殺したり弾圧したりすることは正義だと主張した人は少なくなかった。その上、出鱈目な中傷に基づいて、反ユダヤ意識を煽った。それは悪極まりないだった。 私たちはそののような誤りを犯していないと確信するだろう。 だが、なぜ確信できるのか。...

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