非関与の原則

外国の内政に関与しないことを原則とすべきだと思う。中国政府がこの理念を都合の良い時に強調するが、だからと言って間違っているとは限らない。だが、その理由は国の主権を尊重するからなどではない。

人には自分の人生を決める権利があると私は思う。それを自己中心や個人主義とすることは本人の損害になるが、集団の活動も構成員の個人によって決まる。個人が集団のために決めるべき場合は多いが、集団が個人のために決めるべき場合はないという思想だ。(ここで詳しく説明できないが、外交の場面での実現の説明で意味がより明白になるのではないかと思う。)集団が決めるべきではなければ、まさによそ者には決める権利は一切ない。国も同じだ。その国に住む人が国の構造や政治のやり方を決める。他国の政府が決めるわけではない。安定した国で、政権は国民に認められている。少なくとも黙認だ。それは容認でも、政権に法律や治安の維持方法を委ねることになる。だから、外国の政府や国民がその判断と賛同できなくても、関与すればその国の国民の自主性を否定することになってしまう。その判断はいかに間違っていると私たちが考えても、だ。

これは、国内に異議を申し立てる少数派があってもということだ。国がその抗議を受け入れない限り、その国の判断はそういうことを認めない判断であるので、外から関与する理由にはならない。

もちろん、原則は絶対ではない。原則と鉄則は大きく違います。これからの投稿で、関与すべき状況を論じるつもりだ。

しかし、原則は大事である。特別な理由はなければ、関与しない。外交の場合、「関与しない」というのは、貿易や交流、協定や首脳会談を行うことだ。つまり、内政を強く怪訝しても、普通の交流を続ける。場合によって、国民に渡航しないように警告することもあるが、結局渡航の施行を自国民の判断に任すのは良い。(警告を無視した国民を救済する必要は特にないだろう。)そして、国にも表現の自由があると思う。他国の方針や政治情勢を批判することはできる。確かに、予想できる反発に配慮して、少なくとも名指しの批判を避けることは名案である場合は多いかもしれないが、いい国なら、他国の批判する権利を認めるべきだ。その批判を無視する権利も行使しても良いが。

もう一つの重要な点がある。原則の基盤は国の主権ではない。国民の自主性である。だから、政権が国民の黙認さえ得られない場合、政権を倒そうとする関与も認められるだろう。普段政権を尊重することは、普段政権は国民を代表すると見なすべきであるからだ。そうではない場合、政権を尊重する理由はない。(いうまでもないと思うが、民主主義ではない政権でも国民を代表することはできる。)

つまり、原則から逸脱する場合を大別すれば、二種類ある。一つは、政権を国の代表と見做して相手として講義する場合。もう一つは、政権を国の代表として認めずに状況を是正しようとする場合。後者の方が明らかに深刻で、条件は厳しい。それでも、両方考えるべきだから、これから考えたいと思う。

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