3月 2019

社会性と自主性

天宇受売神の行動の特徴の一つは、自分の利益のためにあまり動かないことだ。確かに、天照大神が天岩戸から出たら、天宇受売神も恵まれたが、その恩恵は全ての神と共有した。同じように、猿田彦神と話した時、自分の旅のためではなく、邇邇芸命の旅のためだった。その上、天宇受売神が勝手に動かずに、他の神と話し合って、その結果に従って動いた。 しかし、ただ命令に従って動いたと思ったら、大きく違う。自分でそのやり方を決めたことは大変重要である。社会はある役割を担ってもらう必要があったので、相談の中で天宇受売神がそれを担うことにした。それから、遂行するための方法を自分で考えて、独特な方法で成功に至った。 人間の宇受女が成功に至らないこともあるが、それは自信の問題である。失敗しても良いことを念頭に置けばそれでも積極的に進める。真似することは、社会が認める役割を担い、自主的に成し遂げることである。...

交渉能力

天宇受売神の神話で顕著であるのは、交渉能力だろう。天照大神を天岩戸から誘い出したし、猿田彦神も納得させただけではなく、夫として入手した。だから、宇受女塾で交渉術も教えなければならない。コツはもちろんあるが、ここで基本態度についてちょっと論じたいと思う。 交渉で、競争と違って、自分の希望も相手の希望もできるだけ満たすようにする。そうするために、何が必要なのだろう。...

自信の基盤

宇受女塾の基盤は自信だろう。勇敢も強情も自信から生えない限り、本物とは言えない。それに、自信には複数の要素があると言えるのではないか。 一つは自分の基礎価値を認めることである。人間尊厳を自分の場合でも実感する必要がある。自分の意見を持ったり発信したり立場にそもそもあることを実感しないと、天宇受売神のように堂々と行動できるはずはない。具体的に、このような自信で、相手が何かを行ったからと言って、必ず従うわけではない。参考とするのは望ましいが、結局自分で判断すべきである。そして、同意できない場合、それを言う権利があることを確信することである。場合によって言わない方が得策であることもあるが、反対意見を表明する自体は悪質になることはないと信じるのは重要である。...

天宇受売神を模範として

先日、『神社新報』である神社が「ウズメ塾」を開いて、女性の塾生の「女子力」を鍛えたことを読んだ。偶然、ほぼ同時に英語での神道紹介のため天岩戸神話をもう一度『古事記』、『日本書紀』『古語拾遺』で読み返した。その「ウズメ塾」で茶の湯などを紹介したようだが、神話で描かれた天宇受売神の性格と行動と結構違っていた。 一番有名なのは、岩戸の前で踊る場合、天宇受売神が胸を晒して踊ることであろう。下の服も開けた、ほぼ裸で踊ると言う。そして、天孫降臨の途中で猿田彦神に交渉する場合も、胸を晒すと言う。これは確かに「女子力」と言えるが、神社で使われた意味と相当違うだろう。...

入居差別の解消

日本で、外国人にとって賃貸住宅に入るのは難しい。川崎市外国人市民代表者会議に務めたとき、この問題がよく浮上したし、外国人市民の実態調査でも浮き彫りとなった。最近、YouTubeでのドキュメンタリーのために取材されたが、解決策についてまた考えてきた。 私は、原則として法律で差別問題を解消することはできないと思う。なぜなら、人間の心の問題であるからだ。法律で「すべての人間を同じように考えろ!」と怒鳴っても、効果はあまり期待できない。その上、差別を禁止する法律を取り締まりするために、国民の生活を厳密に調べなければならないが、それで国家の関与が強すぎる。多くの場合、国家の関与が差別より深刻な問題になリかねない。 しかし、入居問題の質は特別であるので、法律で国籍、出身地、または人種に基づいて入居を拒んだり特別な条件を設けたりすることを禁じると効果は期待できるのではないかと思ってきた。...

祭祀のケ

一人の神職が神社の運営に専念すれば、祭祀が日常の一部になってしまう虞がある。というより、日常になるのは確実である。それは好ましくないように見えるだろうが、避けることはできない。事実を憂うより、対応策を考えた方が良いので、ここでそうする。 まずは、慣れる前に、慣れてからの理想的な形を思い描くのは良いと思う。例えば、日供にどのぐらい時間を割くかを決める。その中で、準備も後片付けも含まれるべきである。これが神社の状況によって異なるので、一概に何も言えないが、例を具体化するために、30分があるとしよう。この中で装束を着けたり、禊祓いをしたり、献饌も祝詞奏上も徹饌も行わなければならない。そして、装束の後片付けもある。...

一人神職とハレ

冒頭で言っておいた方が良かろうが、毎日行うことにハレの雰囲気を与えることはできない。毎日することは必然的に日常である。だから、ハレの雰囲気を求めるべきではない。それで、何を求めても良いだろうか。 特別な祭祀を、神社の年中行事の中で設けることはできるだろう。それを日常的な祭祀と区別したら、ハレな気分を得るのではないかと思われる。例祭はすぐに思い浮かぶ。しかし、毎日祭祀を執り行う神職にとっても、そのように祭祀を特別としたら良いのだろうか。 基本は、実践する人の認識上、日常的な祭祀と区別することである。日常的な祭りと変わらなければ、ハレにはならない。参加する人が如何に多くなっても、本人の動作が毎日と通じたら、ただ毎日のことを行なっていると感じる。...

神職のハレ

参籠が長引くと慣れてしまう問題をその投稿で指摘している。そう考えれば、神職がさらに問題に直面するはずである。神職が神祀りに専念すべきであるとも言われるが、そうすれば慣れてしまうことは避けられない。私も、同じようなことを体験している。私は、大祓詞を暗記して、氏神神社に参拝する前に囁く。(道を歩いているので、堂々と唱えたら周りの人の迷惑になる。)もちろん、その内容に集中すべきである。しかし、最初に集中できたものの、最近ささやきながら頭の中で様々な話題が湧いてくる。なぜなら、慣れてきたからだ。集中しなくても良いので、すぐに別なことを考えてしまう。また祝詞に戻ろうとしても、時間がかかる。 神職はさらにそうであろう。...

参籠のハレ

参籠というのは、神社やお寺で泊まることを意味する。日常から完全に離れて、祭祀等に専念することは目的である。 しかし、大きな問題がある。それは、人間が何でもに慣れることである。非日常な環境でも、人間はすぐに慣れてしまう。特に、毎日同じようなことが起こったら、それは日常になる。つまり、毎日朝一番のご祈祷に参列すれば、すぐにハレではなくなる。 別な側面から見れば、参籠は潔斎の意味も持つ。重要な祭祀の前に一晩籠って、清浄な状態になることはある。そして、一晩であれば、もしかして慣れることはなかろう。だから、まずそのパターンを考えたいと思う。...

更に日常から離れてもらうための儀式として、禊が良いと私は思う。これで、目的は禊自体ではないので、寒中の禊などと意図が明らかに違う。寧ろ、この禊の目的は神事をはっきり日常と隔離させることである。だから、神事に参加しないと意味はない。 禊の基本は水に浸かって穢れを流すことであると言えよう。体を物理的に綺麗にすることも含まれているが、体を洗うだけは非日常ではない。俗界を出る儀式とすべきであろう。 だから、まず素っ裸になる。そして、洗い場に入って、体を洗う。洗い場から、禊場に進む。禊場で、水に浸かって、禊の祝詞を奏上してもらう。そして、お水から上がって、体を拭いて、純白の和装に着替える。...

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