一人神職とハレ

冒頭で言っておいた方が良かろうが、毎日行うことにハレの雰囲気を与えることはできない。毎日することは必然的に日常である。だから、ハレの雰囲気を求めるべきではない。それで、何を求めても良いだろうか。

特別な祭祀を、神社の年中行事の中で設けることはできるだろう。それを日常的な祭祀と区別したら、ハレな気分を得るのではないかと思われる。例祭はすぐに思い浮かぶ。しかし、毎日祭祀を執り行う神職にとっても、そのように祭祀を特別としたら良いのだろうか。

基本は、実践する人の認識上、日常的な祭祀と区別することである。日常的な祭りと変わらなければ、ハレにはならない。参加する人が如何に多くなっても、本人の動作が毎日と通じたら、ただ毎日のことを行なっていると感じる。

祭祀が始まる前から考えれば、潔斎を特別にするのは当たり前だろう。毎日の祭りの前に時間がかかる潔斎はできない。(日常生活ができなくなるからである。)しかし、年に数回に過ぎない祭りのために、少なくとも前日からの厳格な潔斎を行うことはできる。禊、特別な料理、別室での生活を行うことは良かろう。大規模な神社で斎館という施設があって、あそこでこのような潔斎を行う。

そして、装束を別とするのは良い。神社本庁の規則に従えば、そうなる。毎日の祭祀は小祭だが、特別にする祭りは大祭だから、狩衣等ではなく、衣冠を着けるのは基本である。

祝詞の内容も当然異なる。例祭にしか奏上しない祝詞を持つ神社は少なくない。あまり口にしない祝詞を誤らずに奏上するために集中しなければならない。同じように、作法が微妙に違う。実は、微妙な違いが良いのではないかと思う。大きく違うと、間違える可能性は低いが、違いは些細であれば、つい誤る虞があるので、集中しなければならない。それもハレを齎す。

斎場を変えることも効果的である。普段の祭祀を拝殿で行えば、幣殿や本殿の外陣で大祭を行うのが良い。特に、神職は普段入らない祭祀に専用される場所に入っていれば、日常的な問題がそれほど浮上しない。祭祀の前に、この空間を綺麗にしなければならないが、理想として祭主意外な者が掃除を行うと良かろう。掃除を連想する場所であれば、祭祀から気が囚われるだろう。(総代等に任せると良かろう。)

上記の内容は、実は神社本庁の祭祀規則に記載されていることは多い。潔斎は詳しくないが、指摘されている。装束や祝詞の違いは明記されている。大祭の作法には開扉が入るが、それは他の祭りと違う。斎場を変えることは一般的ではないが、そうする神社は少なくないようだ。このハレの立場から考えれば、このような指摘の目的を神職の立場からも理解できる。ハレを確保するためである。つまり、ただの「伝統」ではない。神様に対する敬意とも関係するだろうが、小祭は不敬ではない限り、そのために必要になるはずはない。寧ろ、神職のハレのために考えれば良かろう。

そう考えれば、効率化や簡略化は不適切であると断言できる。そのような変化で、日常に近づくのでハレへの効果が薄まってしまう。手間にも機能がある。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

最近の投稿

最近のコメント

アーカイブ

カテゴリー

メタ情報