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体罰

体罰

養育である程度の被害を許すなら、体罰はどうなるのだろう。体罰を禁じる風潮があるが、私も賛同する。しかし、普通の体罰は、大人になっても後遺症を残すほどではない。そう考えれば、禁じるべきではないのではないかと思われる。多様性を尊重すれば、自分は到底容認できない行為も許さなければならない。 一般的に体罰を批判する根拠は二つあるようだ。一つは、大きな被害とつながる恐れがあること。もう一つは、効果はない事実。...

養育

養育

子供を養わなければ、育たない。餓死等の放置は当然禁じたり防いだりすべきであるが、それに至らない養育であれば、どれほど干与すべきだろう。 例えば、幼い頃の栄養不足の悪影響が一生続く。身長も低くなるし、脳の活動も鈍くなる。一方、運動不足や肥満で、若いうちに糖尿病になる恐れもある。それほどではなくても、偏った栄養で体へ悪影響を与えることがある。 別な方向から見れば、子供に麻薬を使わせたら、人生に悪影響を与えるのは明白だから、養育に悪い要素を入れることにも警戒すべきだろう。 一方、肉を食わない人もいるし、宗教上食材を限る人もいる。そのような人に、子供を育てる余裕をなるべく確保したい。だから、食材等を指定してはいけないだろう。同じように、食べる量や体重には人間の間に差があるので、厳しく制限できない。...

公の教育

子供の将来の選択の自由を確保するために、公の教育は必要だと思う。これは、保護者に習わせないことを許さない内容だ。一方、保護者に自分の理想にそって教育する余裕を残さなければならない。つまり、公の教育を最低限に抑えるべきだ。公立学校の教科と違う。もちろん、公立学校に通えば、公の教育も受けるが、他の内容も学ぶ。ここで、その必要不可欠の部分を考えたい。 この公の教育は絶対義務になる。保護者の宗教等によって免じないのはその意義である。要するに、保護者の宗教で特別な教育が指定されても、公の教育を加える。そして、その公の教育は、資格を持っている先生によって、国家が認可する施設で提供する。つまり、本当に与えていることを確認する。その結果、子供を一般社会から隔離して育てることは許されない。...

保護者教育

この投稿で、主に行政の子育て関与の範囲を論じるが、その前に重要な問題を認めなければならない。 子育てが問題になる原因は二つある。一つは、保護者が子供に被害を与える理念を持って、その理念にそって育てること。この問題は主な課題になる。もう一つは、保護者が子供の利益を目指すが、子育てに失敗して被害を与えること。統計的な証拠を持っていないが、後者の方が普通なのではないかと私は思う。だから、子供を守るために、国家が後者にも対応すべきだ。 基本的な対応策は子育て教育。人間が自然に子どもの育て方を理解すると思われるが、そうではない。子供は保護者と違う人間だから、うまく対応するために技能は必要だ。この教育は学校教育の一部とすべきだ。まずは、高校を卒業する前に親になってしまう人もいるので、その前に教育を提供しなければならない。そして、人が大人になったら、もう強制的に教育を受けさせることはできない。...

基本方針

多様性を尊重するつもりの国家であれば、原則として保護者の子育て方針を許すべきだ。実は、多くの場合、その方針で大きな問題が発生しない。なぜなら、保護者が子を愛することは一般的であるからだ。それでも、完全に放置してはいけない。愛情を感じない保護者も存在するし、子供を育てる方針を大きく間違える保護者も存在する。国家の政策として子供を犠牲としてはいけない。...

多様性と子育て

多様性を尊重する社会で、子育てが深刻な問題になる。 簡単に言えば、本格的な多様性を有する社会で、理想についての意見が分かれる。その場合、ある人から見れば、悪質な理念を保持する人がその社会で生活を送る。悪質な理念を持てば、子供を悪質な方針で育てるのは当然だ。これで、問題が発生する。悪質な子育てを認めないと、多様性を尊重していない。子育ては人生の理念の中心的な部分だから、除外したら理念に大きな打撃を与える。一方、子供を大人の悪行から守ることも社会の責務である。放置してはいけない。...

機会を奪わず

失敗をやり直す機会を提供するのは重要だが、失敗する機会も重要だ。 つまり、流れがあるとしても、流れに戻る機会や方法は多いとしても、それで安心を確保したとは言えない。この投稿の塊で、主に失敗への対応を扱うが、その焦点に危険が伴う。それは、「安心」と決め付けた流れを押し付ける危険である。流れから自由に逸脱する機会も確保しなければならない。 これで一番重要なのは、時間の制限だろう。人間には限られた時間があるので、その時間を奪ったら、返すことはできない。もちろん、ある計画を実現しようとするために費用も必要であることは多いが、安心を確保する措置が財産を奪うことは少ないだろう。一方、現行の制度を見れば、時間を制限することはある。...

才能のない人

才能は全くない人は少ないだろう。それでも、皆無ではない。そして、持っている才能は全て弱い方である人も加えたら、到底無視できない割合に上るだろう。このような人も、社会に認めてもらって、自主的に安心した地位で意味ある人生を送る権利を持っている。 だけど、その権利を保障することは容易ではない。才能はない人は、自己管理力、忍耐力、集中力等の才能も持たない。理解力ももちろん劣る。そのような人は「継続は力なり」と言われても、継続できない。(継続力しか持たない人のために社会的な道を開くことは比較的に簡単である。)失敗したり誤ったりすることも多い。...

多様な才能

社会的な地位は、主に自分の才能の発揮で確保する。その才能で、周りの社会に貢献して、その貢献を認めてもらうことで社会的な地位を作り上げる。 人の才能は多様である。体が丈夫な人もいれば、理解が早い人もいるし、美貌で優れる人もいる。優秀な親を持つことも、才能の一種として認められるだろう。歴史のある家柄は長く才能として認められたし。この才能は同じ人に集中することはあまりない。頭が良くて、運動神経は優秀で美貌な摂関家の末裔の方は非常に少ない。(断じて言える。) だから、社会が認める才能の多様性を保障しなければならない。そうしないと、社会的な地位を確保できない人が多くなり、安心が広がらない。...

誤りからの復活

失敗と誤りは違う。簡単に言えば、「失敗」は価値のあることを志したが、叶わなかった場合を指すが、「誤り」は価値のないことを志した場合を指す。誤りの場合、最初から別な方針を選ぶべきだったが、失敗の場合はそうではない。漫画家を目指したが出版してもらえなかったことは失敗だが、泥棒を目指すのは誤りだ。泥棒としてお金を入手しても、誤りだ。 もちろん、犯罪ではなくても誤りである場合もある。賭博に没頭してしまうことも、ドラマや映画を見るばかりことも、SNSで必死に「いいね」を求めることも、誤りになるだろう。 もう一つの言い方は、失敗の結果は本人のせいではない。本人の責任であることはあるが、本人を責めることは原則としてない。頑張ったが、叶わなかった。一方、誤りは本人を批判する根拠になる。なぜそのようなことをしようとしたのか、と。...

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