日本に住む人の人種は必ず統一されているとは限らない。確かに圧倒的に多い人種があるが、例外もある。しかし、この事実について話すのは難しい。それは、人の反応が悪いからとか、恥ずかしいからとか、話題を挙げたら批判されるからなどではないのである。そのような「難しい」ではない。ただ単に、日本語には必要な単語は存在しないので、伝えたい意味を伝える文章を講じるのは困難である。
ここで、私がいい例になる。私は、一体何なんだろう?
外国人ではない。私は、日本国籍しか持っていないし、日本に住む歴は15年間だし、日本語で大学の論理学の講義も台本抜きにできる。
しかし、「日本人」だけで重要なことが落ちてしまう。外見が目立つ。場合によって、ちょっと恥ずかしくなる。私と一回あった日本人は、再会すれば必ず私を覚えてくれる。逆は、残念ながらそれほど確実ではない。同時に10数人と会うと、完璧に覚えることはできないが、この目立つ外見を覚えてもらうことは多い。だが、その目立つ理由を指摘するのは難しい。「日本人に見えない」と言えば、まず差別的に聞こえるが、日本人であるので、この日本人にピッタリだ。珍しい日本人だろうが、「日本人に見えない」は言い方としてよくない。
「外国出身の日本人」とは言える。それは正しい。しかし、韓国で生まれた日本国籍を取得した日本人も外国出身の日本人であるが、外見は目立たない。それより、親が海外出張していた間に生まれた外国出身の日本人も存在する。
その上、在日コリアンをどうする?「日本人に見える」と言えば、反発すると思う。しかし、外見でなんと言う言葉はない日本人と区別できない。特に在日コリアンの殆どは一般の在日日本人と同じような服装や手振り身振りもするようだから、区別は難しい。これは重要である。例えば、道を普通に歩くと、在日コリアンは警察官に止められ、身分証明書の提示を求められることは少ない。(川崎市ではそうである。)私のような人であれば、その頻度が数倍になる。幸い、それほど頻繁ではないが、大きな差が見える。
そして、在日コリアンと(普通の、一般の、言葉はないのよ)日本人の子供をどうする?日本人だ。日本生まれ、日本育ち、生まれながら日本国籍を持つ日本人である。しかし、単純に「日本人」と言えば、何か大きな欠落があると感じざるを得ない。
これは言語の問題である。この問題は実は重要である。すぐに話せない問題の解決を求めるのは極めて難しいからだ。「外国人市民」の問題の一部は国籍に基づく。しかし、他の問題も多い。川崎市で、「外国とつながりを持つ子供」の使いづらい表現の通用に余儀なくされた。それでも、複数の問題を一括してしまうので、論じる場合区別しなければならない。14歳で外国から来た日本語は一切できない黒人と日本生まれ育ちの中国人と日本人のハーフの問題は全くと言っていいほど違う。それに、帰国子女も「外国に繋がりを持つ子供」であるが、その問題もまた別である。黒人は、日本の言語や文化は分からない問題を克服すれば、まだ日本のことが分からないと思われることが問題となる。ハーフは、「純粋な」日本人ではないことを気づいてもらえなくて、自分のアイデンティティに問題を感じるだろう。帰国子女は、日本に馴染まない側面があるが、周りの人がただ「日本人」として受け取って、認めてくれない。
言語の問題を解決するために、言語を改善するしかない。だから、ここで改善する。新しい言葉を創造して、導入する。カタカナ語を使ったら、外国の問題意識を不当に輸入するので、漢字を使う。(その上、個人的に漢字が好きだし、変なカタカナ語に違和感を感じる。)
まず、私のように外見が違う日本人は、「離貌国民」と言う。外見、すなわち「貌」は日本の平凡と離れているので、「離貌」。一方、あの「普通の日本人」は「凡貌国民」である。「離貌」と「凡貌」を選んだ理由は、優劣な関係は感じないことである。離れるのは悪いことではないし、平凡であることも悪くない。そして、意味はあっている。白人でも黒人でも、アメリカの原住民でも、「離貌」である。日本で、同じ。もちろん、日本人も区別できるが、社会的な立場は同じである。私が帰化する前に、「離貌外国人」だったし、在日コリアンは「凡貌外国人」である。韓国から来た韓国人も「凡貌外国人」である。
そして、文化の問題も同じようになる。日本と違う文化を持つ人は「離慣」と言う。普通の日本人は「凡慣」である。慣れている習慣は日本の平凡と離れるか離れないかという問題である。多くのハーフは、離貌凡慣国民である。しかし、アメリカ生まれ育ちの日系三世は凡貌離慣外国人。大坂なおみ選手は、離貌離慣国民だ。または、離貌離慣日本人である。私は、離貌日本人だが、離慣か凡慣かが曖昧になる。もう15年間だから、日本の文化に染まった点は少なくないが、30年間のイギリス生活の影響はまだある。娘も、離貌か凡貌かは曖昧である。結局離貌とするだろうが、場合によってハーフかどうか判断できない人もいるようだ。このような曖昧なケースがあるのは当たり前だ。凡貌日本人は皆全く同じ外見であるわけではないし、日本の文化が場所によって違うし、場面によって重要な側面も違う。
しかし、離貌国民の問題を論じたい場合、すぐにできる。外国人だと思われることは多いし、英語ができると思い込まれるし、日本人であると分かっても目立つ。凡貌国民にはこのような経験はない。凡貌外国人にもない。一方、日本語能力は国籍と関係はないし、凡貌か離貌かとも関係ないが、凡慣か離慣かと深く関わっている。日本語能力は高くなければ、凡慣になれない。納豆を食べなくても良いが、日本語ができるのは必要条件であることは否めない。
ところで、凡貌凡慣外国人もあり得る。例えば、家系は在日コリアンであるが、親の世代から朝鮮半島のことをどうでもいいとして、ただ日本人として暮らしている場合、その人は凡貌にも凡慣にもなる。国籍は韓国・朝鮮籍のままであるだけだ。(余裕があれば、帰化する可能性は極めて高いだろう。)
要するに、ここで四つの言葉を導入する。凡貌、離貌、凡慣、離慣。これで、日本の人種の課題についてやっと論じられるようになる。
面白い造語です。ただ、「離貌国民」という表現は問題だと思います。国民としての地位は外見と関係ありませんので。一方で、「離貌日本人」は、(仮に普及すれば)有用な語だと感じます。
私も白色人種の帰化日本人です。「日本人」は多義語ですが、しばしば「日本民族の構成員」と解釈されます。そういう意味では「離貌日本人」にような言葉あれば便利だと思います。ただ、個人的には国民としてアイデンティティを重視して、「帰化日本人」を言います。もちろん、単に「日本国民」と言うときもありますし、文脈によっては「日本人」でもいけます。
コメントをありがとうございます。確かに「離貌日本人」もいいですね。何について話していることによって、適切な言葉が確かに変わりますし、普及する言葉によってイメージが固まってしまうことも多いですので、「離貌日本人」の方がいいかもしれません。私も、ただ「日本人」と言ったり言われたりする場合は多いです。相手の反応も面白いです。「帰化しましたか」は一番多いですが、たまに「日本生まれですか?」と聞かれることもあります。
返信ありがとうございます。元琉球国の民族的位置づけの問題はさておき、日本は基本的に単一民族の国家ですから、私たちのような人がいかなる場合において「日本人と呼べ」と周りに要求するのは、望ましくないと私も思います。日本人の多義性と、日本が持っ歴史的背景を素直に認めないとダメだと思うのです。チャートさんは、日本文化、とりわけ神道に深い造詣を持っていらっしゃるので、名誉的な意味合いも込めて日本人とよく言われるだろうと想像します。
私が思うに、本当に問題なのは、「外国人」と「外国出身者」の違いがまだ十分理解されていないこと。そしてもう一つ:マスコミが「帰化」という言い方をタブー視している(出典:記者ハンドブック第14版476頁)こと。
外国人とは、日本国籍を持たない人に限るべき呼称です。(このことは「外国人風」のような表現を否定するものではありません)
「日本国籍取得」は重みがまるでありません。反対にこれを禁句にせよと私は思いませんが、「帰化」の市民権回復は必要でしょう。
そうなんですか。「帰化」にはタブーがあるのは、なぜですか?確かにちょっと珍しい言葉ですが(「帰家」と表記した場合も見たことがありますが、まぁ、意味合いとして悪くないでしょう)、差別的な印象等が思われますか?
「外国人」の使い方について、主に賛成です。在日コリアンに対しての使用には違和感がありますが、(外の国から来たわけではないですから)外見や出身地に基づいて使うのは決して良くありません。
そして、確かに「日本人」の使い方は単純ではありません。私たちのような帰化した人がいつもその言い方を押し付けることは良くないですね。私たちと区別して「日本人」について話したい場合もありますから。しかし、私たちを「外国人」に片付けることも認めるわけにはいきません。
だからこそ造語を考えました。言葉はないと、話すことは困難ですね。
興味深いコメントをありがとうございます。
「帰化」は、記者ハンドブック(テレビや一般的な新聞において圧倒的権威として通用している手引書。自分は1冊持っています。)で、差別用語・不快語に近い扱いを受けています。その「根拠」は、一部の(元)在日コリアンの感情のようです。彼らの言い分としては、帰化の語源は「朝廷に付き従う」であり、つまり彼らは、本邦(本朝)に帰服した人たち、一種の「敗者」として表現されたくないということです。ハンドブックはそこまで言いきっていませんが、ハンドブックの説明を意訳しました。
決して全ての元在日コリアンがこのような感情で日本国籍の取得を捉えている戸言いたいわけではないが、恐らく一部の活動家たちのせいで記者ハンドブックがこのような指針を出してしまったのでしょう。記者ハンドブックとしては、事を荒立てたくないから、とりあえず帰化を事実上の禁句にしてしまったと思われます。
私はむしろ帰化という言葉に誇りを持っています。
なるほど。私も、「帰化」に問題を一切感じません。