日本のような集団社会にはどのような利点、どのような魅力があるのか。西洋から日本を見たら、「アリのように個性を否定して集団のために自分を犠牲としながら働く」の罵ることがあった。個人を重視する文化から理解できないことを見て、強く批判してきた。私も、イギリスでの生まれ育ちなので、同じような反応を感じる。しかし、それはただの偏見である可能性もある。長年続いてきた社会構成には利点があるに違いない。欠点ばかりだったら、高度経済成長をもたらしたことはないし、すぐに崩壊するはずだろう。もちろん、欠点もあるのも当然だが、西洋からあまり見られない利点に焦点を当てたい。そうするため、まず考えている構造を具体的に描写しなければならない。実際の日本社会には多種多様な集団があったし現在もあるので、全てを簡単に考えることはできない。...
裸の脆弱
混浴の積極的な利益は、裸の脆弱と関連する。 裸で見られたら、恥ずかしくて、精神的な被害を受けることは多い。肉体的な被害とつながる場合もある。例えば、入浴中の地震から逃げ遅れて、下敷きになることもあるだろう。命を助けるために恥ずかしさに我慢するだろうと思われるかもしれないが、人間がその様に考えないと言われる。まず恥ずかしさに対応してから、身を守る。 しかし、裸で見られることで必然的に被害を受ける必要はない。物理的に問題はないのは明白である。見られるために、光が肌から反射する必要があるが、一人で入浴するときにも光が肌から反射する。精神的な被害も必然的ではない。生活環境の文化によって決まっている。...
混浴と日本文化
混浴の導入を裏付ける事実の一つは日本の歴史である。混浴は日本の文化である。それに、混浴を止めたのは、西洋人の批判に屈服したからだ。 幕末期の日本を訪れた西洋人の紀行文を読めば、混浴や公然の裸の習慣を驚いて指摘することは多い。キリスト教の宣教師が猛威的な批判を浴びさせることは多いが、より客観的な来日者が文化の違いを認めて、自分の驚きも認めてから、特に批判できるとは思わないとも述べる。 しかし、明治政府は主に西洋風を導入することに決定した。服装や髪型から帝国主義な方策まで幅広い分野で日本の文化を塗り替えようとした。(ところで、日本の所謂「保守派」がこの時期を理想として掲げることは不思議で堪らない。)...
混浴禁止は人権侵害
今の日本の法令で、混浴の施設は原則として禁じられている。歴史的に混浴であった温泉は、県によってその状況を保つことが許されるが、一旦男女別になったら、混浴に復帰することは許されない。 これは人権侵害であるとここで論じる。人権侵害だから、当然改正すべきだ。 論議の筋を簡単に記すと、下記の通りだ。 所謂トランズジェンダーの人は存在する。つまり、体の性器の形式と人の性別との関係が平凡な関係と違う人である。女性で男根を持つ人や男性で乳房を持つ人は分かりやすい例だが、多種多様だ。トランズジェンダーの人は、温泉や銭湯の入浴をトランズジェンダーであることを理由に禁じることは人権侵害である。特に、入浴は文化の重要な一部を占める日本では、それは顕著である。しかし、混浴を認めなければ、事実上のトランズジェンダー禁止になる。だから、混浴を認めなければならない。...
子供の同意
子供の意思を軽視する傾向があると思うが、実は子供には立場があり、行動に同意する能力もある。保護者の経験を持つ人が顧みれば、それは明白である。子供が成長すればするほど、その意思の尊厳が増す。しかし、子供には賢明に判断できない場合も多い。子供を自分から守るのは保護者と社会の役割の一つである。 では、具体的にどうすれば良いだろう。案として、保護者の行動を四つの範疇に分けたら良いと思う。 まずは、行政が推薦する行動だ。このような行動は、保護者教育の一部として教えるし、行政の施設で支援する。子供が同意しなくても、強制的に参加させることは多い。そして、強制的に参加させることは原則として問題ではない立場を取る。推薦している理由は、子供の将来のためにいい影響を与えるためだから、子供がやらされても長期的な問題になるはずはない。(特別な事情で例外があるはずだが、少数だろう。)...
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