穢れは、本人が当然忌み嫌う状態であると論じた。そうすれば、対応は当然であろう。避けようとするし、万が一発生したら、なるべく早く直す。 簡単に言えるが、実践はさほど簡単ではなかろう。 気枯れの穢れを無くすために、自分の気力や体力を取り戻さななければならない。そのために、休んだり、治療を受けたり、リハビリしたり、運動や食生活や睡眠に気をつけたりする。産霊が衰えないように、健康を維持する生活を送るのも適切である。この場合、原因は外から来たか、自分の行動であるかは、関係ない。重要なのは、今の穢れを払拭することである。 何かが乱れたら、片付けたり、修理したり、掃除したりする。これで汚れの穢れがなくなる。...
穢れの本質と発生
穢れは主観的に悪質である。 要するに、穢れを負う人の立場から見ると、穢れを自然に嫌う。穢れを無くしたいのは当然な感情である。 まず、産霊の低迷を考えよう。それは、元気の無い、成長の無い状態である。病気などの状態を思い浮かばせる。このような状態を続いて欲しいと思う人はそもそもいないだろう。 そして、適切な場所を逸脱する穢れを考えれば、適切ではない状態を直したい気分は当然だろう。 では、この嫌われる状態はどこから発生するのだろう。まず、外から押し付けられる場合は少なくないだろう。例えば、インフルエンザに患ったら、それは産霊の低下と結びつくので、明らかに穢れになる。同じように、被災されたら、産霊が低下することもあるし、生活も関係も乱れるので、汚れの穢れも発生する。これを典型的な穢れと位置付けよう。...
穢れとは
神道では、穢れは重要な概念であることを誰も否めない。祭祀に先立ち、必ず穢れを除くために修祓を行う現象は象徴的であろう。しかし、穢れとは何かと聞いたら、答えはすぐに出ない。死は穢れであるとか、血は穢れであるなどと言われるし、延喜式に載っている大祓の祝詞には例があるが、「屎戸」や「母と子と犯せる罪」などには普遍性は欠けているようだし、「白人」自体を穢れとして解釈することは個人的に抵抗感がある。(現在神社で奏上される大祓詞からこの具体例は省略されているが、延喜式には記載されている。) 私の惟神の道では、穢れを肯定的な理想の反面としたいと思う。つまり、穢れは産霊や結びでの問題を指すこととする。...
村社会
日本社会の構成には、移民にとって問題になる要素がある。その要素は嫌悪は愚か、偏見にも、先入観にも基づいていない。構成的な問題である。 日本には村社会があると言われる。神道の文化で良く見える。多くの民社の宮司は踏襲であるし、氏子になるためにその神社の周辺に代々住んできた家の長である資格がある。 このような条件は最初から移民を排除する。 日本人であれば、自分の故郷があるので、ふるさと納税したり、祭のために帰省したりすることはできる。それで、共同体の絆を結ぶことはできる。しかし、移民には日本の古里はない。帰省する為に出国しなければならないが、そうしても日本の文化に参加させてもらうわけはない。外国に行ったからだ。...
外国人への態度
外国人を対象とする嫌悪は日本で少ないのだ。なくはないが、大きな問題になっていない。 しかし、外国人について様々な固定観念がある。 外国人は、日本語が全くできないか、あまりできないので、意思疎通は難しい。 外国人は、日本の礼儀作法が分からないので、共同体の中で問題を起こす。 外国人は、すぐに自分の国に戻るので、長期的な計画に取り入れない方が良い。 外国人は、日本の文化が分からないので、日本の文化が重要になる企画と関われない。 よくある例は、外国人はゴミ分別が出来ない固定観念である。実は、日本出身の日本人もゴミの分別を間違えることは少なくないが、近所の人がその問題に気づけば、外国人のせいにすることは多いようだ。...
離貌人への態度
日本では、離貌人に対して嫌悪を抱く人は極めて少ないと私は思う。 その根拠として、まず私の体験がある。勿論、どこに行っても友達とは言えないが、嫌われることは殆どないような気がする。躊躇する人の多くは、言語の壁を想像しているようだ。私が日本語で話しかけると、気持ち良く対応してくれる。 そして、私の経験だけではない。川崎市で外国人市民の実態調査を行った場合、日本人の友好的な態度を指摘する返答も多かった。 確かに、例外はある。しかし、目立つ例外は凡貌外国人(即ち、韓国人、朝鮮人、中国人)に対する嫌悪を表す。離貌人に対して嫌悪を表す出来事は非常に少ないし、個人的な中傷に留まるようである。 だからと言って全く問題はないというわけではない。偏見は大きな問題ではないと言っても、先入観は激しい。...
言い方の問題
日本に住む人の人種は必ず統一されているとは限らない。確かに圧倒的に多い人種があるが、例外もある。しかし、この事実について話すのは難しい。それは、人の反応が悪いからとか、恥ずかしいからとか、話題を挙げたら批判されるからなどではないのである。そのような「難しい」ではない。ただ単に、日本語には必要な単語は存在しないので、伝えたい意味を伝える文章を講じるのは困難である。 ここで、私がいい例になる。私は、一体何なんだろう? 外国人ではない。私は、日本国籍しか持っていないし、日本に住む歴は15年間だし、日本語で大学の論理学の講義も台本抜きにできる。...
誘惑の制限
国家が他人に影響を与えない誘惑に対して、どう関与すべきだろう。自由主義者の間に、一切関与すべきではないという人は多いが、それに問題がある。まず、子供を守る必要がある。そして、大人になっても、本当の意志に従うかどうか疑う余裕がある。その場合、住民のために国家が関与しても良いのではないかと主張する人もいる。...
誘惑と国家
国家は、どうやって誘惑を扱うべきなのだろう。 意志の尊厳を単純に考えれば、何もしない方が良いと思ってしまうだろう。本人の意志に任せるべきなのではないか、と。本人は誘惑に負けたら、悪い結果が出るのは確かであるが、それは本人の裁量に委ねるべき範囲を超えないので何も関与すべきではないだろう。 この主張の核心は妥当である。国家は、誘惑を選ばせるべきである。確かに、本人の意志の表現の一つである。惟神の道で誘惑を論じた場合、誘惑の通りにするべきなこともあると述べたので、国家が法律で縛ると直ぐに意志の尊厳を侵す。...
倫理と誘惑
誘惑を考えれば、一般的に「倫理問題」と言われることを扱う。実は、欧米では、「倫理」は性的なことを指すことさえあった。「善良な女性」という表現は、ただ単に処女、又は夫以外な男性と性的な行為をしたことはない女性を指した。倫理は、誘惑に対抗するイメージは強い。 ある意味で、それは当然である。倫理の役割は、長期的に行動の指導を提供することである。方針としてどう行動すべきかは、倫理の基本的な課題である。そして、誘惑は、その場で長期的な方針を乱す感情である。だから、倫理で誘惑を乗り越える技を描写するのは良い。 ただ、二つの問題が発生したと私は感じざるを得ない。 一つは、倫理で誘惑を克服する必要性を繰り返して強調するが、具体的な手法を提供しない傾向は強い。極端な例は「ダメなことはダメ」という倫理的な強調である。確かに反例のダメではないダメなことを挙げることはできないが、助言として全く役に立たない。...
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