誘惑と国家

国家は、どうやって誘惑を扱うべきなのだろう。

意志の尊厳を単純に考えれば、何もしない方が良いと思ってしまうだろう。本人の意志に任せるべきなのではないか、と。本人は誘惑に負けたら、悪い結果が出るのは確かであるが、それは本人の裁量に委ねるべき範囲を超えないので何も関与すべきではないだろう。

この主張の核心は妥当である。国家は、誘惑を選ばせるべきである。確かに、本人の意志の表現の一つである。惟神の道で誘惑を論じた場合、誘惑の通りにするべきなこともあると述べたので、国家が法律で縛ると直ぐに意志の尊厳を侵す。

それでも、話は終わらない。先ずは、他人への影響を考えなければならない。本人は原則として他人の意志を尊重する方針を持っているとしても、誘惑に騙され他人の意志を侵すことは恐れられる。飲酒運転、性的暴行、依存を維持するための窃盗などは、その一般的な例である。このような結果を防ぐのは国家の基本の役割の一つである。複数の住民の意志の間に、矛盾することはあるに違いない。国家は、法律などで円滑に展開するように、それになるべく人の意志が犠牲にならないように工夫すべきである。この観点から見れば、誘惑は特別ではない。性的暴行を防ぐ方針は、公害を防ぐ方針と同じ本質を持っている。一番効果的な方法を探る必要があるし、双方に完璧な対策はないとも見込まれる。誘惑であることは特に重要ではない。誘惑は強いので問題は起こりやすいと思われるだろうが、その限りではない。公害のように副作用として発生する問題の方が起こりやすいかもしれない。つまり、個人の倫理を考えれば、誘惑を特別扱いとするのは相応しいのだが、国家の方針の場合はそうではない。他の問題を起こす行動と同じように扱った方だよい。

それでも早すぎるだろう。住民を自分が選ぶ損害からどれほど守るべきであるかは、簡単な問題ではない。意志の尊厳から考えれば、守るべきではないと言えるだろう。本人が損害を選べば、その選択を尊重すべきである。

確かにその通りである。損害を選択させなければ、本当にその人の意志を尊重しているとは言えない。自分が賛同できる選択しか認めていない。しかし、間違えて損害を選ぶこともある。例えば、ある瓶の内容は実際に毒だが、水であると勘違う人が飲もうとすれば、教えても良いだろう。そして、教える余裕を得るために、飲む前に止めても良いのではないか。「本当の意思」は水を飲むことで、毒を飲むことではない。ここで、誘惑が関係する。「本当の意志」はしないことだが、誘惑のためにしようとする場合、止めても良かろう。

その上、ある人が商売として誘惑を提供する場合、客の誘惑を搾取すると言えなくはないだろう。そのような商売をどう考えたら良いのか。このような問題は本当に難しいのだが、最初から「国家は関与すべきではない」とは言えない。

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