神道では、穢れは重要な概念であることを誰も否めない。祭祀に先立ち、必ず穢れを除くために修祓を行う現象は象徴的であろう。しかし、穢れとは何かと聞いたら、答えはすぐに出ない。死は穢れであるとか、血は穢れであるなどと言われるし、延喜式に載っている大祓の祝詞には例があるが、「屎戸」や「母と子と犯せる罪」などには普遍性は欠けているようだし、「白人」自体を穢れとして解釈することは個人的に抵抗感がある。(現在神社で奏上される大祓詞からこの具体例は省略されているが、延喜式には記載されている。)
私の惟神の道では、穢れを肯定的な理想の反面としたいと思う。つまり、穢れは産霊や結びでの問題を指すこととする。
産霊との関係を論じるために、よく目にする穢れの解釈を利用したいと思う。穢れを「気枯れ」と解釈して、生命力の低迷として受け取る神道書は少なくない。そのほとんどは一般向けではあるが、概念として受け入れても良かろう。つまり、自分の産霊が低下すれば、それは穢れである。穢れを払拭することは、元気を取り戻すことになる。
そして、穢れと汚れの関係についても考えた方が良いと思う。物理的な綺麗は神道で重視されている。神社の境内の掃除は神職の重要な職務であるし、祭祀の前の潔斎では体を物理的に綺麗にすることも重要である。神社参拝の手水を物理的な手洗いと解釈する神職も存在する。つまり、手水は宗教的な儀式ではなく、単純に手を洗うとの解釈である。
しかし、汚れを考えれば、難しい点がある。顔に土があれば、顔は汚れているが、地面に土があっても、汚れてはいない。神社の境内を綺麗にするために、土をなくす必要はない。ただし、神社の境内を綺麗にしても、拝殿に入る前に靴を必ず脱ぐ。それは拝殿を汚さないためだが、境内は綺麗であれば、どうやって汚せるのだろうと思えるのではないか。
この問題を打破するために、「汚れ」を「適切な場所を逸脱したもの」と定義することはできる。土の適切な場所は地面であるので、その場合は汚れでもないし、穢れでもない。穢れどころか、盛り土で祓いを行う儀式さえあるようだ。しかし、土が拝殿に入れば、それは適切な場所ではないので、汚れになり、穢れになる。顔について土も汚れだが、化粧は汚れではない。化粧は顔に付くためのものであるからだ。
この「逸脱」の概念を広く捉えれば、結びと結びつく。結びの中の適切な行動を逸脱すれば、それは、結びを損なうし、穢れにもなる。同じように、自分の成長のための計画を損なう行動をとれば、それも適切なことを逸脱するので、穢れになる。要するに、この穢れが結びにも産霊にも関連する。
気枯れも産霊だけではなく、結びとも関連する。結びを維持するための感情が衰えたら、結び自体が損なわれるからである。
このように穢れを捉えたら、惟神の道の基本理想と結び付けられる。しかし、穢れの役割はまだ明らかではないので、さらなる検討が必要となる。