穢れの本質と発生

穢れは主観的に悪質である。

要するに、穢れを負う人の立場から見ると、穢れを自然に嫌う。穢れを無くしたいのは当然な感情である。

まず、産霊の低迷を考えよう。それは、元気の無い、成長の無い状態である。病気などの状態を思い浮かばせる。このような状態を続いて欲しいと思う人はそもそもいないだろう。

そして、適切な場所を逸脱する穢れを考えれば、適切ではない状態を直したい気分は当然だろう。

では、この嫌われる状態はどこから発生するのだろう。まず、外から押し付けられる場合は少なくないだろう。例えば、インフルエンザに患ったら、それは産霊の低下と結びつくので、明らかに穢れになる。同じように、被災されたら、産霊が低下することもあるし、生活も関係も乱れるので、汚れの穢れも発生する。これを典型的な穢れと位置付けよう。

穢れは嫌われていると言っても、必ずしも強制的に付けられているとは限らない。自分の選択肢で自分を穢れることがある。誘惑を論じる記事でこのような例をたくさん扱うが、それだけではない。単純な間違いで自分の穢れを招くこともある。例えば、鶏肉は新鮮であると思い込んで食べてしまうが、実は腐っていたので病気になる。もう少し気をつけたら穢れを避けられたのに。より深刻な間違いもあり得る。例えば、ある技能を目指して努力するが、結局その技能に達成できないし、体力を費やしてしまうので、産霊を低下させる。事実上穢れを求めた状態ではあるが、本人はそう思わなかった。本人は産霊が増す状態を目指していたが、根本的に間違えたので逆効果になってしまった。わざと穢れを目指す場合は、誘惑に対抗できない場合に限るだろう。

そうではないだろうと反論する人はいるかもしれないので、その反論を考えたいと思う。

産霊の場合、ある欠点を自分のアイデンティティの重要な一部と捉える人はいるのではないかと反論できるだろう。例えば、障碍者の中で、障碍を無くしたくない人は少なくないようだ。それは、穢れを抱えたい心理なのではないかと問われるだろう。

しかし、そうは認めない。人間は、無限な存在ではない。産霊を重視するために、どこを成長させるかは、決めなければならない。そのために、積極的にある能力を身につけないように決めることもあり得る。例えば、私は武術ができない状態を維持することにしている。人を殺すための技術を持たないのは、私にとって重要である。その能力があったら、寧ろ嫌がる。障碍者の場合も、積極的に目の不自由さを保とうとすることはあり得る。この場合、障碍は産霊を損なわない。寧ろ、理想な産霊に達成するための産霊の輪郭の一部である。

もちろん、障碍者によってその意見が異なることもある。障碍を産霊の制限として認識すれば、穢れとして捉えれば良いのである。そうなれば、その障碍を嫌うのは当然だが、直そうとするとは限らない。確かに、穢れを無くしたいのは当然である。それでも、場合によって、無くさない穢れとして認識することもあり得る。これは、人間は無限ではないからである。例えば、私は、中国語ができない弱点を直さないことにした。中国語を身につけるためにかなりの努力も時間も必要だが、他のやりたいことがあり、他の取得したい能力がある。だから、中国語の不能をほっとく。穢れとして感じる障碍を直さない判断も、そのような判断に似ている。障碍はそれほど問題になっていないので、別な側面に力を注ぐ選択肢は適切であろう。若しくは、障碍を直すために手法は見当たらないか、全力を要するか、その状態で別なことに力を注ぎたいと思うこともあろう。つまり、無くせれば、無くしたいのだが、それは無理であるか現実的ではないかと認識する場合である。穢れをいつも避けることができるとは限らない。

汚れも同じである。まず、自分にとって何かがやりたいことであれば、原則としてしても汚れにならない。自分にとって適切であるからだ。そして、結びを持っていない人が批判しても、気にしない。穢れであると言われても、認めない。穢れはその意味で普遍的ではない。

しかし、ここでも認めなければならないことがある。一人の産霊と結びの間で矛盾が生じることはあり得る。例えば、中国語の能力を伸ばすために中国に滞在したいのだが、恋愛結びのために日本に住み続けるべきである場合を考えよう。産霊を重視すれば、結びの方で穢れが発生する。逆に結びを優先すれば、産霊の方で穢れが発生する。この場合、穢れを選択することはあり得ることは潔く認める。しかし、これは穢れを好むことではない。穢れなしに生きられたらいいなと思うはずだ。全ての希望を同時に叶おうとするのは最高である。これで、穢れは不可避ではあるが、それでも嫌われている。

同じように、産霊の中で、または結びの中で、矛盾が生じる場合はある。取得したい技能は多過ぎて、物理的に取得できない場合、穢れを残らせるが、それは致し方のない残念な状況である。同じように、二つの結びが要求するそれぞれの行動が矛盾すれば、穢れを避けることはできないが、その状況を嫌う。

結びの関係で、個人にとって問題が発生することも予想できる。なぜなら、指定の場所や状態や事柄を一々自由に選べるわけではないからだ。郷土の結びを選べば、そして認めてもらったら、その地域の人の掟があるが、結びを保つためにその掟に従わなければならない。その掟の中で納得できない点があることは十分あり得る。確かに郷土の結びを放棄する選択肢はあるが、場合によってそれは卓上の選択肢に過ぎない。この問題について別途で詳しく論じたいのだから、ここで割愛する。ただ、この場合で望むのは穢れではなく、穢れなしにある行動が取れる状態である。穢れとする側面はいつも嫌われる。

こう考えれば、人に「穢れを忌み嫌え!」と言ったら、その意味がわかる人は必ず同意する。齟齬は、穢れの具体的な内容のレベルで生じる。

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