他人の穢れ

「他人」というのは、自分と結びを持っていない人を指している。そのような人の穢れをどう考えれば良いのか。

原則はすぐに言える。どの人でも、穢れはないように行動すべきである。惟神の道で穢れを忌み嫌うが、それは自分の穢れに限ったことではない。

但し書きが必要となる。

先ずは、他人の穢れを自然に忌み嫌うとは言い難いのである。自然な状態は、気にしないことだろう。他人は、結びを持っていない人だから、その人の穢れはなんで気になるのかと問われてもおかしくはない。

自然ではないとしても、自分の行動で他人に穢れを齎さないように気をつけるのを惟神の道の重要な一部としたいのだ。

但し、穢れを齎すかどうかは分からないことは多いのである。この世は複雑で、自分の行動の影響が意外に広がることは多い。環境問題は顕著な例だろう。自分のごく普通の行動で、太平洋の小さな島国の絶滅を促進してしまうことがある。何もしないと、自分の産霊や結びに問題が発生するので、それも許せない行動である。

穢れを避けるために、知識は必要である。しかし、それだけではない。個人として、一般に穢れを齎さないための知識を貯めることはできない。70億人の地球に穢れを与える方法は無数になるほど多いのではないか。だから、複数人が協力して、社会レベルで穢れを与えない状況を築くべきである。個人としてこの大事業に貢献できるが、一人で遂行できない。社会構成がこうなれば、他人の穢れを全く気にしない人でも、あまり他人に穢れを齎さない。なぜなら、自分の行動のために社会が提供する手法を当然利用するが、その手法が穢れを与えないように工夫されたからである。

現在の社会はそうではない。電力を使うと、穢れを齎す。物品を買うと、穢れを齎す。食べると、穢れを齎す。数十年前の国内の公害問題が酷かった時代よりもマシになったのは事実だが、問題はまだまだ解消されていない。

その上、穢れを負うのは人間だけではない。全ての生物には産霊がある。人間以外の生物に穢れを齎さないように社会構造を工夫することは殆どないだろう。神道で鎮守の杜の重要性を訴えることはあるが、それは第一歩に過ぎない。

この行動でも矛盾が発生すると予想できる。穢れを齎さないようにすれば、人の行動の制限にもなる。(制限にならず、手法を変えることに止まる場合もあるが、制限は一切発生しない方法があると思うのは楽観視の極まりだ。)その場合、制限から穢れを負うことがある。これで、穢れの対応の記事で述べたように、自分の目指す行動の修正を考えて、穢れを負わない方法を探るのは良い。社会の変更も求められるが、社会で皆の穢れを平等に考えるしかないので、自分で応じることになる可能性は十分ある。

ところで、社会構成が穢れを特定な人物や生物に齎さないように活動する人は、その対象となる人物や生物と結びを持つことは殆どだろう。それで必要な知識を得るし、活動するための動機も得る。もちろん、この結びは当事者同士の結びになることは多いのである。

今回の内容はいつもより整っていないような気がするが、とりあえずこの状態で公開する。このような方向に沿って整えていきたいと思う。

1 コメント

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  • 駄目だ完全に頭が鈍ってる。
    懐かしくて、暗算で解いてみたら間違えた。
    4人がじゃんけんしてあいこになる確率
    {4C2・(1/3・1/3・3)}・1/3・1/3・2+1/3・1/3・1/3・1/3・3=13/27
    なのに、あいこでない組で重複を除いた場合の2(グー、グー、チョキ、パーなどのチョキ、パーの2通り)を掛けてなくて答えが合わなかった。
    アクチュアリーは難関だけど、統計士というのもあるんですね。

    小学校卒業時点で高校数学をマスターしている学徒がいるらしい。
    漢検どうでしたか?

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