祭具は祭祀に使う道具で、供物を供えるためのお皿などが主役になる。これで、常若の観点から問題が発生する。一般のお皿は焼き物である。神宮では、特別な素焼きなお皿は作られているが、一回使用したら捨てるそうだ。神聖性に配慮することであるようだが、粘土は再生可能な資源ではない。消費は遅かったら、確かに長持ちするが、永続を考えれば、いつか無くなるのが決まっている。
その為、そのような祭具を避けた方が良いのである。そうすれば、また歴史的な前例がある。大嘗祭にまだ採用されているが、柏の葉で作られたお皿があった。そして、お水やお酒のために漆を利用する器は可能なのではないだろうか。竹を編んで箱を用意したり、木造の案を使ったりすれば、再生可能な材料になるので、持続可能な構成になる。祝詞を書く紙も再生可能な性質であるし、墨もその選択肢がある。
装束も同じである。麻や絹は再生可能であるので、原則として自然繊維を利用すれば問題はない。染めるためにも、近所で再生できる材料を使うことはできる。この場合、中央に指定された色に染められないこともあるが、多様性と個別な伝統を重んじれば、それは寧ろ好ましい結果であると言えよう。
考え始めたら明白になるのは、祭具を製作するための技能等は多いこと。栽培から機織りまでの布の用意は安易ではない。柏の葉から器を作るために技術も必要である。社家と宮座を合わせて自給自足するのは理想であるが、どのぐらい実現できるのかは疑わしい。その上、現代の社会で文明的な生活を確保するように工夫しなければならない。祭具の用意に全ての時間を費やさせるわけにはいかない。
このように作られた祭具は確かに工芸品に当たる。だから、同じ技能を発揮して、祭具と形が違う工芸品を作って売り出すことも考えられる。需要はどのぐらいあるのかはわからないので、祭具を奉納することで最低限な生活を維持できる状態は好ましい。しかし、それを確保するために、やはり神社には莫大な収入は必要となる。普通の神社が到底できない。
これに対応するために、やはり複数の神社が協力して、同じ職人に依頼するしかない。統一化の恐れがあるが、現実の問題を解決しなければならない。統一化の問題を緩和するために、近い職人に依頼するのは良い。そうすれば、例えば秋田県の神社と奈良県の神社の間の差が自然に開いていく。そして、一つの神社が複数の職人に依頼するが、なるべく他の神社と完全に重なり合わないように工夫すれば良い。例えば、隣接する村の神社は柏の葉の器を同じ職人に依頼するが、装束を別な職人から奉納してもらう。そうすれば、神社の間の違いが見えてくる。その上、機械に頼る工場ではなく、人間の職人に依頼すれば、神社毎にやり方をちょっと変えてもらうこともできる。それで共通点は避けられないが、神社の独自の伝統が自然に整っていくと思われる。
他の分野と同じように、その場で永続できる技能は必ずしも伝統的な技能であるとは限らないが、職人が一人でできる技能になるので、伝統工芸の香りがあるに違いない。これも神祀りに相応しいと思う。