5月 2021

誤りからの復活

失敗と誤りは違う。簡単に言えば、「失敗」は価値のあることを志したが、叶わなかった場合を指すが、「誤り」は価値のないことを志した場合を指す。誤りの場合、最初から別な方針を選ぶべきだったが、失敗の場合はそうではない。漫画家を目指したが出版してもらえなかったことは失敗だが、泥棒を目指すのは誤りだ。泥棒としてお金を入手しても、誤りだ。 もちろん、犯罪ではなくても誤りである場合もある。賭博に没頭してしまうことも、ドラマや映画を見るばかりことも、SNSで必死に「いいね」を求めることも、誤りになるだろう。 もう一つの言い方は、失敗の結果は本人のせいではない。本人の責任であることはあるが、本人を責めることは原則としてない。頑張ったが、叶わなかった。一方、誤りは本人を批判する根拠になる。なぜそのようなことをしようとしたのか、と。...

流れの調整

世の中、人生の戦略を積極的に決めない人もいる。そのような人が社会の流れに乗って、流されるままにする。安心できる社会を構築するために、流れで満足できる人生に漂着するように工夫しなければならない。 人生の戦略を決めるのは容易ではない。いつでもできない人は多いし、そうできない若者は特に多いと思われる。だからこそ小中高の学校がある。子供がその流れに乗って卒業まで流される。それからも、流れで人生を講ずることができる制度は良いと私は思う。 実は、日本にはそのような制度があったのは大昔ではないそうだ。90年代まで高校を卒業したら、高校の先生が就職先の会社を探して、就職させることは多かったようだ。そして、会社に入ったら、定年まで働くと社会的な地位や収入を確保したという。独特な人生を思い描いて実現する必要はなかった。...

やり直す機会

安全網の基本は、やり直す機会であると私は思う。 人間は失敗する存在だ。失敗を完全に避けることはできないし、一人の人間の人生に複数の失敗があるのはほぼ確実である。だから、安心するために、「今回失敗しても、次回また頑張れる」という意識は必要だ。 そのため、社会はなるべくやり直す機会を提供すべきであると思っています。もちろん、人間は失敗するだけではなく、死ぬ存在でもあるので、永遠までやり直す機会を与えることはできない。そして、例えばオリンピック・パラリンピックに派遣される機会を与えられる回数は少ないし、してもらえる人も大変限られているので、結局できることには制限がある場合も少なくない。 それでも、できることは多い。...

本物の安心

社会で安心して暮らすというのは、どういうことだろう。 身の安全はもちろん重要である。いつでも襲われる恐れがある状態の中で安心できるはずはない。しかし、それだけでは十分ではない。社会的な地位が常時に不安定であれば、安心できるとは言えない。その反面、好まない社会的な地位を脱却する術はない日常でも、安心できるとは言い難い。 安心の社会というのは、自分の欲しい人生を目指せる社会で、失敗しても壊滅的な結末にならない社会であると私は思う。成功する人が失敗する人より幸せを入手することは多いと思われるが、失敗しても絶望にならないし、平凡な生活を送ることができる状況が保障されている社会なら、誰でも安心になるだろう。自分のことはもちろん、子供等の親戚についての心配もかなり軽減されるのではないか。...

最近の投稿

最近のコメント

アーカイブ

カテゴリー

メタ情報