本物の安心

社会で安心して暮らすというのは、どういうことだろう。

身の安全はもちろん重要である。いつでも襲われる恐れがある状態の中で安心できるはずはない。しかし、それだけでは十分ではない。社会的な地位が常時に不安定であれば、安心できるとは言えない。その反面、好まない社会的な地位を脱却する術はない日常でも、安心できるとは言い難い。

安心の社会というのは、自分の欲しい人生を目指せる社会で、失敗しても壊滅的な結末にならない社会であると私は思う。成功する人が失敗する人より幸せを入手することは多いと思われるが、失敗しても絶望にならないし、平凡な生活を送ることができる状況が保障されている社会なら、誰でも安心になるだろう。自分のことはもちろん、子供等の親戚についての心配もかなり軽減されるのではないか。

このような社会を実現するために、二つの要素は重要である。一つは個人の自由。もう一つは社会の安全網。しかし、この安全網は社会福祉に限らない。生活保護等の措置は、ある意味で失敗の保障になるが、その存在で人が安心できるとは言えない。生活保護が生命と最低限の暮らしを保障するとは言えようが、人間にはそれ以上のニーズがある。社会的な地位や周りの人の尊重や評価も必要である。社会の中で役割を担って、そのために社会の一員として認めてもらうことも重要だ。

これは簡単に確保できることではない。現在の社会では、失敗したら認めてもらえないことは多い。だからこそ社会との乖離を感じる人は少なくないし、絶望する人も少なくない。仕事を失ったら、地位や名誉を失うと感じる人も多いと言っても過言ではないだろう。

この問題を完全に解消するために、社会の根本的な世直しが必要となるかもしれない。しかし、世直しの過程で多くの人が損害を受けることは避けられないので、一気に革命の旗を掲げるべきではない。将来のために現在生きている人を簡単に犠牲にしてはいけない。

だから、完全な解消より、明らかな改善を目指すべきだと思う。改善を積み重ねて、解消への道を見出すことも期待できるかもしれないし、祈ることは絶対にできる。そして、改善ごとに絶望に陥る人が減っていく。そうならないと、改善ではない。

このような改善は、問題は多層であるから改善も当然多層である。これからの投稿で、考え付いた改善策を掲げる。ここで概要に限るが、後ほど具体策としても考えたいと思う。

そして、主に安全網の側面に焦点を当てる。なぜかというと、現代の日本社会では、個人の自由より安全網の方が問題になっているように感じるからだ。個人の自由について、女性に制限がまだあるとか、性的マイノリティにも制限があるなどと訴えられているが、掲げられている対策に効果がありそうなので、さらに論じる必要は感じない。実現のための努力は必要だが、このブログで論じることしかできない。

だから、本格的な社会の安全網の作りについて、数回に亘って論じたいと思う。

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