機会を奪わず

失敗をやり直す機会を提供するのは重要だが、失敗する機会も重要だ。

つまり、流れがあるとしても、流れに戻る機会や方法は多いとしても、それで安心を確保したとは言えない。この投稿の塊で、主に失敗への対応を扱うが、その焦点に危険が伴う。それは、「安心」と決め付けた流れを押し付ける危険である。流れから自由に逸脱する機会も確保しなければならない。

これで一番重要なのは、時間の制限だろう。人間には限られた時間があるので、その時間を奪ったら、返すことはできない。もちろん、ある計画を実現しようとするために費用も必要であることは多いが、安心を確保する措置が財産を奪うことは少ないだろう。一方、現行の制度を見れば、時間を制限することはある。

義務教育の制度は顕著な例である。全ての子供は学校に通って、皆と一緒に同じ授業を受けなければならない。才能のある人にとって、それは時間の無駄になるので、返すことのできない時間を奪うことになる。義務教育の中で自分の才能を育むために時間を費やしたい人の機会を確保すべきであるのではないか。

教育が終わったら、不安定な生活を送りたい人もいる。例えば、6ヶ月働いて、資金を貯めてから6ヶ月ボランティア活動や芸能活動をする人も想像できるだろう。しかし、生活の安定を重視する制度を導入すれば、このような生活が無理になる可能性がある。労働条件を定める法律でそのような短期的な就労が事実上禁じられる恐れがある。

この課題で二つの側面がある。一つは根本的に難しくないが、実践するのは困難である。それは、安心を齎らす制度に選択肢を必要以上制限しない理念である。理念として問題はないが、安心の中で自由を確保するのは容易ではない。

もう一つは根本的に難しい。個人に自由を与えたら、力を持つ人がその自由を悪用して、無理矢理弱者の自由を利用させて、その弱者を搾取することがある。しかし、上記のような短期労働を探す人に短期的に就労する機会を与えるために、雇用する側に短期労働者の雇用を許さなければならない。さらに、短期雇用が一般的に許されたら、目立つ才能はない人の生活がきわめて不安定になる。現在の社会でその問題が見えてきた。

このように真正面に矛盾する問題は極めて厄介だ。制度の詳細で双方の問題を調整して、なるべくいい妥協案に辿り着くのは目的だが、制度が実施される前に実際の影響を予想するのは難しい。人が自分の利益のために利用することを知ったとしても、詳しくどうやって利用するかは、事前に想像できないことは多い。人はそれぞれの想像力があるので、制度を定める側が想像しない利用法があるのはほぼ確実だ。

だから、安心を確保するための制度の改善を考える場合、具体策を慎重に検討する必要がある。

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