才能のない人

才能は全くない人は少ないだろう。それでも、皆無ではない。そして、持っている才能は全て弱い方である人も加えたら、到底無視できない割合に上るだろう。このような人も、社会に認めてもらって、自主的に安心した地位で意味ある人生を送る権利を持っている。

だけど、その権利を保障することは容易ではない。才能はない人は、自己管理力、忍耐力、集中力等の才能も持たない。理解力ももちろん劣る。そのような人は「継続は力なり」と言われても、継続できない。(継続力しか持たない人のために社会的な道を開くことは比較的に簡単である。)失敗したり誤ったりすることも多い。

このような人は、生まれつきの才能で極めて不運だったが、社会の中に人生に不利をさらに重ねるのではないか。社会側が頑張らないと、不公平の極まりないことになる。現在の社会で、そのような不公平を実現してから、被害者に向けて「自業自得」と批判して、さらにひどい状態に陥らせる。

今まで掲げた政策は役に立つ。流れがあれば、流れに乗ることも期待できる。そして、やり直す機会や誤りからの復活も保障されたら、当然起きる問題が永遠に響かないだろう。才能の多様性で、どこかである程度才能があったら、最大限で発揮できる環境になる。

それでも落ちる人は少なくないだろう。社会側がどうすれば良いのか。

一つは、才能のない人を守ることだが、それはちょっと違う課題だから、割愛する。

もう一つは、社会の流れの詳細だ。

まず、流れに乗ることは、誰にとっても一番やり易いこととすべきだ。つまり、自己管理が足りなかったら、流れに乗ってしまう。忍耐力や集中力が何かに及ばなかったら、流れに乗ってしまう。才能はない人は、このように失敗することは多いので、その場合流れで安心を確保すべきだ。

そして、才能はなくても、流れに乗ったら、人生が展開するような構造は必要だ。将来に希望を持てない人は、流れから暴動しながら逸脱するだろう。一方、流れは乗りやすくて、逸脱するためにもちょっと努力は必要であれ、その上流れのままであれば将来に収入や名誉が増して、最後に楽しい老後が待つことが見えたら、才能はない人でも社会から落ちないだろう。

その一方、自主的な人生を送る権利もある。流れは統一的であれば、自主的ではなくなる。だから、自分の好みに基づいて方向を選ぶ機会も流れの中で提供しなければならない。

上記の社会は実現し難いと思われるだろう。私もそう思う。一番脆弱な人の利益を保障する社会を構築することは、歴史を見渡す限り一回もできていないと言っても過言ではない。だからこそ一気に実現できないと私も思う。部分的な改善を積み重ねて、長期に渡って理想的な社会に近づくのはできることだろう。改善ごとに数人の人生をよくするので、完全ではなくても意味があると認めなければならない。

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