体罰で肉体的な被害を与えることがあるが、それは唯一の被害の種類ではない。精神的な被害もあるし、精神的な被害の方が深刻であるとも言えるだろう。なぜなら、精神的な「打撃」が後遺症を引き起こす傾向は強いからだ。
しかし、精神的な被害の定義は非常に難しいようだ。例えば、自分の意欲を捨てて、他人の希望を叶えるために勤める精神は、尊ぶべき精神だろうか、被害の証拠だろうか。それは、人の理想によって違うので、多様性を尊重する社会で、どちらも認めなければならない。
恐怖症や鬱病を引き起こすことは精神的な被害であるとは言えるだろうが、軽微な恐怖症は精神病ではなく、ただ何かを怖がる現象だし、うつ病が軽微になったら、それはやる気があまりない状態になる。「蜘蛛が苦手」という人は精神的な被害を受けたのだろう。
問題は程度だけではない。因果関係もよく把握されていない。例えば、うつ病が体調の崩れから発生する場合もあるようだから、精神科医はまだ正確に区別できないようだ。(薬で治る場合、原因は脳の化学物質だったと思われるが、薬で治らない場合、原因が不明のままになる。)
もちろん、精神的な被害を与える薬物の利用を制限したり禁じたりすることはできる。それは養育の制限と同じだが、精神的な症状があるとしても、このような被害が肉体的な過程で発生した。検討は困難である場合があるが、根本的な問題はそれほどない。
問題は、精神的な手法で引き起こした精神状態だ。例えば、子供にいつも「お前には生きる価値はない」と言い続けたら、精神的な被害を受ける可能性は高いだろう。しかし、学校での失敗を強く批判することも、精神的な被害の原因になりかねない。次の通りな過程だ。批判で自信が低下する。それで勉強がうまくいかない。そのため、また失敗する。失敗はまた批判される。悪循環に入ってしまう。では、学校の失敗の批判を虐待と見做して、刑罰すべきだろうか。それは難しい。
宗教も同じである。キリスト教で、悪行をしたら永遠に苦しむ教義がある。その教えのために恐怖症や精神的な被害を受けた人はいるようだ。では、子供にキリスト教を教えることを禁じるのか?禁じたら、多様性を本当に尊重しているのか?
客観的な基準を設けようとしても、問題が発生する。肉体的な被害で、重要な能力を失うことを基準の候補として掲げたが、精神面では同じような基準を導入するのは難しい。例えば、人を殺す精神がない人には、人を殺す能力はない。軍隊に重要であるが、養育のために人を到底殺せない人が本当に被害を受けたのだろうか。
さらに価値観について考えれば良い。子供の頃、吸収した価値観を脱出することは非常に難しい。なぜなら、行動の選択肢を持っている価値観に基づいて評価するからだ。その価値観を覆す行動を選ぶことは少ない。しかし、そうであれば、自分の価値観を選んでいない。ただ保護者の価値観を継承した。しかし、保護者も同じであると思われるので、「自分で価値観を選ぶ」と言っても、具体的にどういう行動を指すのだろう。
この側面でも、同じ基本方針を指針とする。大人になったら、自分で自分の人生を自由に選べる状態を保つことだ。しかし、専門家の意見はまた必要だ。精神医の意見も、哲学者の意見も重要である。私は哲学者なので、次回その哲学者の問題について論じたいと思う。