価値観を子供に教えるのは子育ての重要な一部である。明言して教える必要はない。「親の背中を見て子は育つ。」つまり、保護者の価値観や行動を見て、子供が価値観を習うことは多い。価値観を教えずに済むことはないだろう。生きるために価値観は必要だから、子供は環境から吸収する。
多様性を尊重する社会の基本の基本は、価値観の多様性を尊重することだ。だから、国家レベルで許される価値観を指定して、その中から選ばせるわけにはいかない。大人なら、価値観を自由に選ばせるしかない。価値観の一部は、子供にその価値観を継承してもらうことだ。(例外はもちろんあるが、子供に与える価値観に触れない価値観は少ないだろう。)
しかし、実際に存在する価値観の中に、「自爆して、教育を受けている女子を殺すことは美徳だ」という価値観も存在する。実は、「国家のために、国家の仇を打ちながら自分を犠牲とすることは美徳だ」という価値観は世界中に称賛される。戦時中の日本で盛んになって、特攻隊の自爆も称賛した。このような価値観を制限すべきだろうか。
より抽象的に考えれば、子供を奴隷的な存在として、保護者のために行動すべきであると教えることも危ういと思われるだろう。しかし、それは儒教である。親孝行が強烈な理念として捉えられたことは多い。儒教を制限すべきだろう。
保護者の直接的な利害を外しても、特定の他人のために生きるべきであると教えることも危うい。これは、キリスト教になる。キリスト教で、神様のために生きるべきであると教える。キリスト教を禁じるべきか。
もしかして、違法行為を促す価値観の教育を制限することはできる。大人であれば、そう考えて、推進することも許さなければならないが、(違法の行為自体は許さないけれども)お酒と同じように、それは大人に限ることはできるだろう。だから、子供に「万引きがいい」とか「海賊版の音楽を聞いてもいい」とか「悪質な政治家を暗殺すべきだ」などの価値観を教えてはいけないことになる。しかし、子供が保護者の行動から習うので、保護者が法律の改善を違法なデモで求めたら、それは価値観を教える。これで、法律に反対する人の子育てを禁じることになりかねないので、非常に慎重に扱わなければならない。
さらに、合法であるが子供に教えることは悪質であると思われることもある。例えば、男尊女卑の価値観は違法ではない。男女差別が違法となっても、男尊女卑の考えを禁じることはできない。しかし、特に女子に押し付けることはよくないだろう。「大人になったら、男性に仕えるべきだ」と教えると、女性に大きな負担になるのではないか。
しかし、そういう価値観を教えることは禁じられないと私は思う。拘束力はないように努めて、公の教育で価値観から脱出できる力を備えるようにして、子供に自主的な抵抗の能力を提供するしかないだろう。女性が女性に相応しくないと国家が思う価値観を保持しても、それは多様性の一部である。
自分の価値観と違う価値観であれば、一部は悪質であると思うことは避けられない。そのような一部は存在しなければ、本当に違う価値観ではないだろう。そして、場合によって、その「一部」が相手の価値観の過半を占めることもあろう。大人に許せば、子育てにも許すしかない。子供を長期的な影響から守って、大人になって保護者の価値観に背く力を養うことしかできないだろう。