5月 2018

家庭祭祀の役割

家庭祭祀は何のために執り行うのだろう。 基本的に、家庭のためであると言えるのではないか。つまり、社会の単位となる家庭という共同体のための祭祀であるのではないか。家庭の間の絆を強めたり、家庭の安全と繁栄を祈ったりする。繁栄というのは、ただ経済的に富裕になることとは限らない。家庭の人たちのそれぞれの資質向上も含まれている。自分をよりよくするための努力も、家庭祭祀の対象となる。家庭が一緒に向上することもそうである。お互いに支え合って、一緒に素晴らしいことを作り上げることを祈るのは相応しいのではないだろうか。...

家庭祭祀の性質

家庭祭祀とは、一般の家庭の中で執り行う神道的な祭祀のことを言う。その世帯の祭祀で、私的な祭祀であるように見える。一方、神道の公共性は謳われているので、家庭祭祀には公共性があるのだろうか。 まず、一番単純な公共性はない。それは、誰でも参加できる公共性である。家庭祭祀には、家庭しか参列できない。来客も許されるだろうが、一般の人は参列できるまい。当たり前で当然なことである。 では、別な意味で公共性があるのだろう。つまり、祭祀の目的は公益であることなど。このように考えれば、あり得るだろう。家庭の祭祀に世界平和を祈ることはできるが、そうすれば或る意味の公共性がある。一方、ただ自分の家族が大金持ちになるように祈るばかりであれば、公共性はない。つまり、家庭祭祀に公共性を取り入れることもできるし、除外することもできるようである。...

祭祀の想定

ここで、私の持論で神道の祭祀の想定について具体的に明記する。 「祭祀の想定」というのは、祭祀の形や行動が前提とする状況を指す。ただし、この状況は実際にそうであるかどうかは、別な問題とする。 想定は下記の通りとする。...

祭祀の独自機能

祭祀を勧める場合、注意点があるのだろう。 まずは、祭祀自体は悪いのか。それは祭祀毎に考えなければならない。抽象的に「祭祀」と言えば、良いか悪いかは答え難いが、例えば人間を生贄とする祭祀が悪いと簡単に言える。祭祀を考えれば、悪質にならないように配慮しなければならないが、これは具体論の問題である。 だが、一般論として言える問題がある。祭祀に費やす時間や財産や努力は、別な方法で費やしたら、より強い効果を得るという反論になるのではないか。つまり、祭祀の心理学的な効果は期待できるとしても、本当の目的のためにさらに効力的な行動があるので、祭祀に費やす時間や努力は無駄になっているということだ。より効力的な行動はあるのだろう。...

強制と促進

国家には強制力がなければならない。しかし、強制的に住民の自由を制限する行為を慎重に考えるべきである。意志の尊厳に考慮して、他人の自由と可能性を保護するためにしか自由を制限しないほうが良い。というより、この範囲を逸脱すれば、国家の権力の濫用であると言いたくなる。 前にも指摘したが、自由と可能性の保障の範囲は意外と広い。それでも、無限では無い。強制以外の促進を認めるべきである。 促進は、ある行動を公的に褒めたり勧めたりすることだけでは無い。ある行動をよりやりやすくしたり、やりにくくしたりする行為も入っている。例えば、タバコ税は促進の範囲に入る。強制的では無い。タバコを吸いたい人は吸える。しかし、値段が高くなるので、経済的な理由で吸わないこととする人もいるのでは無いか。このような行為は、政権が取るべき場合もある。 大別したら、種類は二つだろう。...

参政権

国家の行政は、どの形を取るべきなのだろう。住民の意志を尊重する善意の独裁者でも良かろうか。 そうは思えない。国民の政治参加は必要不可欠である。 先ず、理念自体を考えれば、国民の意志を政治決定から排除することはそもそもおかしい。意志を尊重するのに、無視する。如何なものか。 基盤として、民主主義を導入しなければならない。民主主義の有効な役割は、国民の信頼を失った政権を無血で排除することだと私は思う。自分の一票で立候補した人の一人に投票することだけで、国民の意見を行政に届けられるとは思えないし、将来の道を選ぶために鈍すぎる手段でもある。しかし、もう信頼できない政権を平和的に倒すために、最適な方法だろう。この民主主義は最終的な審判であると言えよう。政権の日常的な活動に細かく影響を与えないが、政権が国民の意志から大きく逸脱すれば、政権交代を強制的にさせられる。...

意志の実現

意志の尊厳というのは、心の中でなんでも目指しても良いという意味に留まらない。実世界に実現する権利も含まれている。実現させなければ、意志を本当に尊重しているかと問われるが、原則として意志を尊重するために実現を許すべきであると述べたいのである。 国家の役割から見れば、これは重要な概念である。先ず、歴史的に謳われてきた自由はとても重要である。国家がある思想を、又はある宗教を禁じたら、意志の尊厳を深刻に侵す。このような自由は確保されていなければ、意志の尊厳を表現することはできない。...

政治と倫理

意志の尊厳は、政治理念として掲げる。倫理の全てではない。 その理由は意志の尊厳の性質にある。つまり、意志の尊厳は、自分の行動についてほとんど教えてくれない。ただ、自分の意志を尊重するべきであることに留まる。しかし、倫理の役割は、簡単にいえば、何を選ぶべきかを教えることである。 意志の尊厳は倫理の一部になれる。他人に対する行動で、他人の意志を尊重すべきであると教える。この理念から、「殺すな」、「騙すな」などの規則が発生すると言えるだろう。しかし、倫理の範囲はそれよりはるかに広いのである。倫理は、行動の全てを対象とする。場合によって、このような行動なら倫理的なアドバイスはないと教えるかもしれないが、それは行動自体は対象外という意味ではなく、ただ倫理的な指示はないということである。意志の尊厳のアドバイスは、乏しすぎる。...

意志の範囲

「意志の尊厳」は聞き慣れていない表現がと思うが、「人間の尊厳」はよく言われる。私はなぜ敢えて珍しい表現を選んだのだろうか。 簡単に言えば、範囲を人間に限定したくないからである。 人間は皆意志を持っていると思うので、意志の尊厳は人間の尊厳を必然的に導き出す。しかし、人間ではないと意志を持たないと言い切れないし、意志を持てば、自分で道を選びたい気持ちもあるし、他人には選ばせる権利は見えないので、重要なのは意志であり、人間性ではない。 では、意志は何だろう。 意志は、自分の存在を意識して、知識などに基づいて自分の将来について計画を立てる能力だと思う。双方は重要だと強調したいのだ。 意識はなければ、主観的な立場はそもそもない。意識はなかったら、破壊しても誰も苦しませない。その破壊を主観的に経験する存在はないからである。例えば、パソコンには意識はなかったら、処分しても良い。...

理念の礎

理念には礎は必要。基本的に何を大事にするかという質問である。この礎は複合的である可能性は先から排除できない。例えば、真、美、愛を掲げたら、それは礎になるが、この三つは違うし、お互いに矛盾する場合もある。しかし、このような礎はなければ、始まることさえできない。 私の政治理念の礎を意志の尊厳とする。 これはある意味論じることはできない決意である。これは基本価値観であるので、反論として別な価値が掲げられても、反応はただ単に「意志の尊厳と合わないので、退けるべきである」ということになる。つまり、裁判所のような論争は相応しくない。礎の上に築く具体策についての議論はもちろん可能だし、望ましい。しかし、礎について違う。議論ではなく、説得である。つまり、礎の魅力を見せて、他人の賛同を求める。自分に対しても、この礎を選ぶべきであると納得させることも重要である。自分の判断を疑って、確認するのは極めて重要だ。...

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