家庭祭祀の性質

家庭祭祀とは、一般の家庭の中で執り行う神道的な祭祀のことを言う。その世帯の祭祀で、私的な祭祀であるように見える。一方、神道の公共性は謳われているので、家庭祭祀には公共性があるのだろうか。

まず、一番単純な公共性はない。それは、誰でも参加できる公共性である。家庭祭祀には、家庭しか参列できない。来客も許されるだろうが、一般の人は参列できるまい。当たり前で当然なことである。

では、別な意味で公共性があるのだろう。つまり、祭祀の目的は公益であることなど。このように考えれば、あり得るだろう。家庭の祭祀に世界平和を祈ることはできるが、そうすれば或る意味の公共性がある。一方、ただ自分の家族が大金持ちになるように祈るばかりであれば、公共性はない。つまり、家庭祭祀に公共性を取り入れることもできるし、除外することもできるようである。

他方、私的な性質は除外できない。除外すれば、もはや家庭祭祀ではなくなる。一般の人が参列できるし、特定の家庭のことと特別な関係を持っていないからである。つまり、家庭祭祀は必然的に私的な祭祀であるが、任意的に公共性を持つことはできる。

では、公共性を持つべきなのだろうか。それは言えるのではないか。自分のことしか考えない祭祀は、自己中心であって、世界への配慮が欠如することを表す。そのような祭祀は良くないに違いない。自己中心の行動になると、家庭のものであるものの、本格的に祭祀ではなくなるかと聞いたら、そうではない。自分のことばかりでも、家庭祭祀だと言えるが、家庭祭祀として良くない。

公共性を取り入れるため、どうすれば良いのか。神社本庁によると、神宮大麻を奉斎して、皇室と国家の繁栄を祈るべきであると強調する。神社本庁が神棚や家庭祭祀を普及しようとすれば、この概念が必ず中心に据えられる。

しかし、個人的に私はこのような方針を強調する理由はすぐに見出せない。確かに、歴史的な根拠は明白である。明治時代に、全国民の一体感と連帯感を発生させ、育むために、天皇を中心とした国家への忠誠は最高の道徳として掲げられた。その方針の一部として、皇祖神の天照大神を祀る神宮の神符を奉斎させるのは当たり前であった。全国民には、この制度を重視する義務があるかのように見せる方針であるからだ。

それでも、この歴史的な理由は現在に足りないと思わざるを得ない。

まず、それは当時の政府の方針に過ぎない。必然的な倫理性を持っていない。それを裏付けようとした神話の語りも無力である。神話は事実ではないし、仮に神話は事実だったとしても、天皇は天照大神の子孫であるからと言って国を知ろしめすべきであるとは限らない。今神宮大麻奉斎を推進しようとしたら、「明治政府がこう言った」という理由には説得力は乏しい。

その上、明治時代のこの制度は、帝国主義と戦争を導いてしまった。この制度を拒絶して、家庭祭祀自体を否定する理由は充分ある。神宮大麻を奉斎することは、実際に戦争や帝国主義と繋がらせられたので、明治の制度を避けようとするのは当然だろう。

つまり、これで神宮大麻を必ず奉斎すべきであるとは言えない。理由があれば、別な理由になる。家庭祭祀に公共性を導入する方法を探ると、さらに考えなければならない。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

最近の投稿

最近のコメント

アーカイブ

カテゴリー

メタ情報