意志の範囲

「意志の尊厳」は聞き慣れていない表現がと思うが、「人間の尊厳」はよく言われる。私はなぜ敢えて珍しい表現を選んだのだろうか。

簡単に言えば、範囲を人間に限定したくないからである。

人間は皆意志を持っていると思うので、意志の尊厳は人間の尊厳を必然的に導き出す。しかし、人間ではないと意志を持たないと言い切れないし、意志を持てば、自分で道を選びたい気持ちもあるし、他人には選ばせる権利は見えないので、重要なのは意志であり、人間性ではない。

では、意志は何だろう。

意志は、自分の存在を意識して、知識などに基づいて自分の将来について計画を立てる能力だと思う。双方は重要だと強調したいのだ。

意識はなければ、主観的な立場はそもそもない。意識はなかったら、破壊しても誰も苦しませない。その破壊を主観的に経験する存在はないからである。例えば、パソコンには意識はなかったら、処分しても良い。

将来の計画はなければ、尊重することはない。意志の尊厳で、自分の道を選ばせるが、選ぶ能力はない存在であれば、それはできない。

両方は重要だが、意識の方が重要である。意識を持たない存在には立場はないので、配慮する必要はない。蚊には意識はないと、殺しても問題ない。埃を拭くと同じである。計画を立てられる無意識な存在があるとしても、配慮しなくても良い。立場はそもそもないからである。

一方、計画が立てられない意識のある存在は違う。このような存在には立場があるので、配慮するべきである。ただし、尊重することは出来ない。苦しみを避けて、楽になりたいとつい思ってしまうが、計画を立てることができなければ、そう「したい」とは言えない。何かをしたいというのは、簡潔な計画を立てることである。つまり、苦しみを避けるかどうかは、意識ある存在は決められないので、私たちは決めなくてはいけない。

つまり、意志のある存在は、政治的な共同体の一員に値するので、意志の尊厳の対象となる。意識を持っているのに意志を持っていない存在には、配慮すべきであるものの、共同体の一員に値しない。最後に、意識を持っていない存在は、配慮さえしなくても良い。意識のある存在のために大事にする場合はある(多い)が、意識を持っていない存在自体のために何もしない。

では、重要な質問が浮上する。何に意志があるのか。何に意識があるのか。木々には意志があれば、林業を禁止しなければならない。小鳥に意志があれば、猫の小鳥狩りを禁じるべきのではないか。倫理的な立場から、政治的な立場から、これより重大な問いはないのだろう。

それでも、残念ながら答えられない。意志や意識の根拠などは全く分からない。人間の場合に限っても、意識はどこから発生するかさえ分かっていない。脳のどこかと思われるが、そのどこはまだ分かっていない。意志は尚更である。人間での構造を把握すれば、同じ構造のある存在には意識や意志があると推測できるようになる。確かに進歩である。ただし、同じ構造はない存在には意識はないと判断するために、意識の本質を理解して、どうやって物理的な構造から発生するか、又は物理的な構造と関係なく発生するかを把握しなければならない。

基本権利は人権に限らない。その範囲を明らかにするのは、重要な行動である。ただし、基本権利は少なくとも全ての人間に及ぶことは言えよう。これも基本的な理念になる。

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