政治と倫理

意志の尊厳は、政治理念として掲げる。倫理の全てではない。

その理由は意志の尊厳の性質にある。つまり、意志の尊厳は、自分の行動についてほとんど教えてくれない。ただ、自分の意志を尊重するべきであることに留まる。しかし、倫理の役割は、簡単にいえば、何を選ぶべきかを教えることである。

意志の尊厳は倫理の一部になれる。他人に対する行動で、他人の意志を尊重すべきであると教える。この理念から、「殺すな」、「騙すな」などの規則が発生すると言えるだろう。しかし、倫理の範囲はそれよりはるかに広いのである。倫理は、行動の全てを対象とする。場合によって、このような行動なら倫理的なアドバイスはないと教えるかもしれないが、それは行動自体は対象外という意味ではなく、ただ倫理的な指示はないということである。意志の尊厳のアドバイスは、乏しすぎる。

社会の中で、多種多様な倫理観を持つ人が共存すると思うべきである。統一感は強い社会でもそうだが、現代社会ではさらに明白である。意志の尊厳の意味の一部は、そのような社会を維持することだ。社会を維持するのは、所詮国家である。

国家は、社会に強制的に行動を禁じたりさせたりする存在だ。こうしない国家は国家ではない。そして、国家自体には意志も意識もない。自分の意志をどう発揮する指導は不要である。国家の場合、意志の尊厳は理念として足りるし、ぴったりに合っていると私は思う。だから、政治理念を考察すると、意志の尊厳を礎とする。

一方、倫理についても考えたいのだ。倫理を論じる場合、意志の尊厳だけではなく、他の礎も考察する。この政治理念についての随筆は、より大きい計画の一部であるが、その大きい計画には倫理的な構築も入っている。ただし、構築する倫理観は、提供するが強制的に押し付けようとしない。違う倫理観を認めるのは寛容の基本であるが、私は寛容を重視する。それと違って、意志の尊厳を強制的にやらせるべきである。違う倫理観に基づいて人を殺したい人間がいれば、阻止する。人殺しは意志の尊厳に違反するからである。止められた人はいかに自分の立場を強調しても、聞かない。国家の力を借りて、止める。

国家の役割を具体的に描写するために、ただならぬ努力が必要になると予想する。意志の尊厳を実現するために、人の自由を制限しなければならない。例えば、人殺しを禁じなければならない。ある意味で、矛盾が最初から発生する。自由を守るために、自由を奪う、ということだ。しかし、それは事柄だから、問題に直面して解決を探るしかない。その努力が終わったら、まだ倫理的な問題と取り組むべきである。努力はまだ終わっていない。私は、同時並行するつもりだが、計画を隔離する。接点は勿論あるが、別々で考えるべき点の方が多いと思うからである。

つまり、政治理念は倫理の極一部に過ぎない。だが、他の倫理と本質が違うので、個別に論じる。

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