何故祭祀

何故祭祀を斎行するのか。

答えになり得る主張の一つは、神は本当に存在して、神社などに鎮座して、伝統的な祭祀に超自然的な力を持って応えてくれるということである。それは事実であれば、祭祀を執り行う理由は十分ある。しかし、神社神道で、こう強調することは非常に少ない。皆無ではないが、殆ど見られない。そして、私もこういう風に強調したくない。根拠が明らかに足りないからである。

では、何が理由になるだろう。ここで前置きしたいことがある。私はもう祭祀を推薦することにしている。だから、この理論で自分の前に決まった行動を正当化するように努めている。事実に至る為に最善な方法ではないが、仕方がない。それでも、このように考えても理由に思いつけなければ、自分の決意に疑問を抱くようになることは多い。仮に根本的に間違っているとすれば、このような理論は正への第一歩になる。私には、実際にそのような経験もある。

正当化する為に、何が見つかるのだろう。

まず、基盤としての一般論を紹介しよう。儀式は人間にとって重要であることは研究によって裏付けられている。儀式があれば、生活には形があるので、継続にも変更にも対応できると言われている。そして、儀式で重要なことを特定すれば、その重要性をより実感できる。祭祀は儀式であるし、様々な状態に合わせることができる。祭祀の儀式は対象の行動の内容と懸け離れているが、それは利点である。実際の行動を儀式化すれば、臨機応変の支障になるので、儀式を別な形にすべきである。例えば、着工の儀式は、工事のやり方にすべきではない。工事のやり方は、現場の調子に合わせるべきであるが、儀式は決まった形式で行わないともはや儀式ではない。そして、様々な出来事に対応できる儀式も良い。人生の出来事は予測できないので、事前に何が必要となるのかは、予想できない。祭祀のようにすぐに対応させる儀式は良い。

つまり、儀式は重要であるが、祭祀は儀式の形として適する。もちろん、祭祀は千年以上の歴史の中で儀式として出来上がってきたので、これは驚くほどではない。

そして、この話がもう一つの理由を導く。日本の伝統である。神道の祭祀は日本の伝統の一部であるので、この儀式の役割を日本で果たそうとすれば、その伝統的な形で果たせば良い。確かに、独自の形式で儀式を作り上げることはできるが、このような儀式と比べたら、伝統のある儀式にはもう一つのメリットがある。伝統的な儀式に参加すれば、その伝統を持つ共同体の一員である気持ちが強まる。人間は、共同体の一員になることを重視するし、歴史のある将来に続く共同体に入ることも重視されている。だから、伝統的な祭祀の形に従えば、もう一つの効果を期待できる。

独自の儀式を考えれば、別な側面が現れる。儀式は芸術作品の一種である。深層の効果もあるだろうが、表面的に人生を彩る。この観点から、祭祀は共同体の芸術作品であると見做すことができる。その場合、枠組みの中で作成するのは自由に作成することよりはるかにやり易いので、忙しい日々の中で、その助けを受け入れた方が良い。作家の仕事で痛感してきた事実である。

それで、神が超自然的な能力で応えてくださることを信じる根拠は足りないとしても、完全に否定する為の根拠も乏しい。詳細は妥当であると思えないが、何か重要な事実を把握している可能性はある。そうではないと、1500年続いて来ないはずである。その一部は上述の効果なのだろうが、全体的にどこが真実で、どこが幻想かは簡単に言えない。だから、もしかしてまだ分かっていない要素から利益も発生するかもしれない。その可能性をすぐに排除することはできない。新しく創作した独自の形にすれば、この可能性が低くなる。1500年の継続の証拠はないからである。これだけは理由にならないが、他の能動的な理由があれば、これが伝統的な形式を維持する理由の一つになり得る。

これを考えれば、祭祀を斎行しても良いのではないか。

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