動機

動機

この政治理念の随筆の中で、主に私に実現できない内容を語る。その上、この理念に基づいて政治活動を開始したとしても、実現できる見通しもないことは多い。ならば、なぜこれに時間を費やしているのか。

先ず、社会問題や社会情勢に対応すべきだ。日本国民の一人として、投票する。この立場で、政治現象も社会現象も分析して評価しなければならない。基本理念はなかったら、ただの直感で評価することになるが、直感にそれほど信頼できないと思う。直感は、自分の深層の理念や確信と深く関わっているのは間違いないが、それだけではない。自分の意欲と自分の利益が水面下で影響を強く与える。本人も見通せない場合は少なくない。例えば、自分の趣味を違法とする法案が提出されたら(アメリカで、銃規制が一つの例になる)、すぐに反対する。それは自分の趣味を保護するだけではないと強調するし、正直にそう考えることは多いが、理念を考えないと、実は自分の好き嫌いによって左右されてしまうことは恐れられる。場当たりの判断を避けるために、理念をはっきり把握すべきだと思う。

そして、政治活動を考えている。しかし、それを開始する前に、何を目指しているかを決めないと極めて危うい。政治活動の中で、妥協しなければならない。自分の理念にそぐわない行動に参加したり、自分の理想と違う状態を実現したりすることは必要不可欠である。なぜかというと、政治家は独裁者ではないからだ。万能の独裁者であれば、自分の理念や理想を成し遂げ、世界をその青写真の通りにできるだろう。それ自体は良いかどうかは別として(これから説明する理念から見れば、明らかに良くないけれども)現実は違う。他の政治家も一般の国民も違う意見を持っているので、何かを実現させるために妥協するしかない。だからこそ政治家には理念はないと良く言われるが、基本的にそうではない。ただ、理念を純粋な形で実現するのは無理である。

それでも、妥協する場合、何について妥協するか、何について堅固に守るかを決断しなければならない。自分の理念をはっきりしないと、その判断はできない。はっきりしても、決め難い場合があるに違いないが、少なくとも道標があった方が良い。理念は抽象的な理想になるはずだから、具体策の詳細には修正する余地があると思われるが、理念があるからこそ、修正で真髄を失わないように気をつけられる。ここで、抽象的な理念も具体策も考えるつもりだが、お互いに照り合わせて、具体策を通して理念をさらにはっきりにすると同時に理念で具体策を正す。

最後に根本的な理由もある。私は芯から哲学者である。このように問題を考えることは避けられない。書かなくても、道の散歩をしたらつい国民の自由や差別問題などの基本を考えてしまう。私の思想を体系的に書き留めて、私の活動にも、もしかして他の読者の活動にも役に立つだろうが、私は生きている限り辞められないので、とりあえず書く。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

最近の投稿

最近のコメント

アーカイブ

カテゴリー

メタ情報