祭祀の独自機能

祭祀を勧める場合、注意点があるのだろう。

まずは、祭祀自体は悪いのか。それは祭祀毎に考えなければならない。抽象的に「祭祀」と言えば、良いか悪いかは答え難いが、例えば人間を生贄とする祭祀が悪いと簡単に言える。祭祀を考えれば、悪質にならないように配慮しなければならないが、これは具体論の問題である。

だが、一般論として言える問題がある。祭祀に費やす時間や財産や努力は、別な方法で費やしたら、より強い効果を得るという反論になるのではないか。つまり、祭祀の心理学的な効果は期待できるとしても、本当の目的のためにさらに効力的な行動があるので、祭祀に費やす時間や努力は無駄になっているということだ。より効力的な行動はあるのだろう。

有力候補がある。殆どの目的を目指すために、直接に努力できる。祭祀を執り行えば、そのような直接的な努力はしていない。(祭祀を芸術作品として考えれば、祭祀自体は目的になるので、この反論は的外れとなるが、祭祀は芸術作品だけではないと述べている。)つまり、祭祀より、直接的な努力に力を注ぐべきなのではないだろうか。

これで否めないことは、祭祀が長引いて実際の努力の妨げになるとダメであることだ。例えば、毎日執り行う祭祀を普通に短くするべきであろう。祭祀自体には、祭祀に費やされる努力に応えられる役割を持たなければならない。これも、個別論になることは多いので、続きの個別論でこの問題に何回も戻るのではないかと思うが、一般的に言えることもあろう。祭祀には独特な機能があれば、その役割のために時間を割いても良かろう。

祭祀にはそのような要素があると思う。二つが思い浮かぶ:意識と結び。

祭祀に参加すれば、物事の見方を意識する。祭祀がある立場を取って、その立場を象徴するからである。物事に対する意識は大変重要であるが、実践の中で見失うことは少なくない。例えば、学校現場で次のテストのために教えなければならないが、それは学校教育の目的ではない。本当の目的を忘れずに進むために、その意識を喚起する行動は良いのではないか。現場で次の一歩に集中することは、重要である。そうしないと失敗が発生するし、前に進めない。だから、現場でいつも根本を意識するわけには行かない。だからこそ、儀式にはそのような役割を課しても良い。

もう一つは結びである。人間はよくバラバラで動く。孤独感が増すことは少なくない。大きな会社で同僚は多い場合でも同じだが、現場で一人か二人かしかいない場合、尚更である。しかし、皆で儀式に参加すれば、その結び、その連体感、その一体感が強くなる。人間には孤独な状態が良くないので、これも儀式の特別な役割になり得る。

この二つの要素は、前述の儀式と実践の乖離の根拠とも関わる。実践で結果を出すことを優先すべきである。結果を出すために、根本的な意識や周りとの結びを考えないほうが良い場合は少なくない。その場で、その場の問題と取り組まなければならない。現場とちょっと離れた儀式で意識や結びを強めれば、現場の邪魔にならないが、大切なことは忘れ去られない。

最後に、超自然的な力の可能性を完全に忘れてはいけない。あれば、付加価値になる。だが、その存在は疑わしいので、上記の二つの役割を主要にすべきだろう。祭祀を考えれば、意識と結びへどのように影響するかを、念頭に置かなければならないと言えよう。

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