家庭祭祀を斎行するのは家庭である。では、家庭というのは、何だろう。
家庭は、同居して生計と生活を一つとする人の集団であると定義したいのである。
現代の家庭の典型的なイメージは核家族だろう。それは間違いなく家庭の一例であるし、重要な一例でもある。しかし、それだけではない。まず、三世代世帯も家庭になる。このパターンが保守派によって理想として掲げられているが、四人兄弟の家族が多い時代に、親と同居できるのは一人にすぎないので、戦前でも少数派だったと思わざるを得ない。
しかし、家庭を考えれば、血縁や婚姻を必要条件としたくない。
家庭で、家庭の一員である大人は、家庭の全ての責任を負う。普段役割分担があると思えるが、危機が発生すれば、何でもかんでもやるし、それは自分の責任であるとも思うのである。文句を言うこともあろうが、それでも先ず責任を果たす。経済的な責任もそうだが、例えば家事も同じである。つまり、典型的な家族では、収入を得ることは普段夫の役割としても、夫が病気になったら、妻が働いて収入を得るのは当たり前である。同様に、妻が普段家事を担っても、妻が病気になったら夫が家事をする。
私は、家庭の中の平等を原則とするが、家父長制の家庭でも家庭であると言える。その条件は、家父長は妻が病気になったら、自分が家事や子育てをする義務を認めることである。「そうならないで欲しいが、最後になったら、全ては私の責任」ということである。
このような家庭の中で、一人ひとりの活動の余裕がある。家庭の責任を果たさなければならなが、それはいつも最優先であるとは限らないし、日常的に果たしても余裕が残るだろう。
家庭をこのように考えれば、家庭の構成員の間に血縁の関係も恋愛の関係も婚姻の関係もないことも可能であることが分かる。珍しいと思うが、例えば大学の親友が一緒に住んで、お互いに活躍を支え合うことはあり得なくはない。同性のカップルも当然家庭になれるし、多夫多妻な組み合わせでも家庭を築くこともできると思う。その上、家庭は永遠な存在ではない。典型的な家族でもこれは明らかである。子供は大人になって、門出するので、家庭の形が自然に変わる。
そして、一人家庭でも可能である。一人家庭であれば、家庭の間の絆はないが、全ての責任がその人に属するので、家庭の定義を満たす。
家庭の理想像を別な機会で考えたいのだが、家庭祭祀はこのような共同体の祭祀を指していることをここで述べる。