成長

成長

成長とは、自分の能力を増すことを意味する。出来ないことを内面的に出来るようになったら、それは成長である。「内面的に」というのは、例えば梯子を買ったら、高いところへ登ることができるようになるが、それは成長ではない。一方、壁をよじ登ることができるようになると、成長である。

成長で得た新しい能力を存在として考えれば、成長を創造の一種として捉えることはできなくはない。しかし、成長について考えれば、自分を鍛えるように考えた方が適切なのではないかと私は思うので、創造と成長とを区別して扱う。

成長を具体的に言えば、新生児から大人への成長はもちろん、勉強の全て、訓練の全ても入る。知識を貯めると、少なくとも当分野についての質問に答えられるようになる。多くの場合、理解力が増すし、適切に行動できる範囲も広がる。訓練で技能を身につけるので、その技能で活動範囲が広がる。

能力の大半は、内面的な要素も外面的な要素もある。例えば、コンピュタのソフトを作成するために、コンピュータは必要不可欠だ。一方、脳内のの理解や知識や能力も必要である。ギターを弾く能力があっても、ギターはない限り発揮できない。一方、私に今ギターを与えても、弾けるわけではない。そして、多くの場合、能力の一部は道具に具現化されている。コンピュータの場合は顕著な例だろう。ソフトを作成するために、別なソフトを使わなければならない。そのソフトが作ったコードをコンピューターを動かす形にする。手作業でできる仕事ではない。この事実は全く問題にならない。成長は、道具を使えるようになる部分で、発揮する活動は別な範疇。

これで、成長の目的の話が浮上する。なぜ成長を促すのだろう。厳密に言えば、理由はない。成長は指標の一つであるからだ。「成長に資するため」が様々な活動や施設利用の理由となるが、成長自体には理由はない。特に、能力を発揮するために成長するわけではない。目的は成長である。

もちろん、この定義での成長は、原則として活動に役に立つ。できることの範囲が広がると、生活が豊かになったり、楽になったりすることは期待できる。ただ、成長自体は目標とする。例えば、考古学者になるつもりはないのにシュメール語を学ぶと、生活に役に立たないと思われる。東京でも、シュメール人の観光客と会うことは当然ない。実際にタイムスリップして古代シュメールに到着することもない。しかし、その勉強で自分の可能性を広げるので、成長である。評価する。

活動に駆使することを成長の評価の条件としないとしても、成長の内容によって評価が変わるでしょう。例えば、詐欺技を磨いたら、褒めるべきなのだろうか。疑問を抱くのは当然だが、惟神の道の他の要素に基づいて判断しなければならない。とりあえず、産霊の一部は能力を増やすことである。

1 コメント

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  • 自分の場合は、二年前、法律に目を通してて、労働基準法三十六条の特別条項が長時間労働を助長すると指摘したことがある。國のデータベースの特記欄に載っているかもしれない。國家に貢献できたから良しとしょう。

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