他人の産霊

産霊から展開する活動は主に自分に関わる。つまり、自分で何かを創造したり、自分で成長したりする。しかし、それで産霊を尽くすわけではない。

まず、協働で行う活動がある。創造の場合、このようなケースは多い。身近な例は映画だろう。映画の最後にその映画の作成に関わった人の名前が数分に亘って上映される。このような作品を一人で作り上げることはできないので、産霊を実現するために一緒に働かなければならない。協働的な成長もある。例えば、お互いに囲碁をし合って技を高めることは少なくない。その場合、双方が成長する。

単身で活動するか、協働で活動するかは、個人の自由に任せる。成長と創造の評価に影響しない。創造の内容や成長の質によって適切な方法が変わるし、人の好みにも影響されるが、その相違によって価値が決まるわけではない。

しかし、このような状況はまだ自分の創造と自分の成長である。他の人も一緒に働いているが、「自分で」と「一人で」の意味は必ずしも一致するとは限らない。協働しても、自分で創造するし、自分で成長する。本当の「他力」の例はどうだろうか。

ある意味、あり得ない。誰が作っても作品が現れるが、その想像に貢献したのは、過程に参加した人に限る。さらに、成長のために本人が動かないとなんともならない。私が如何に運動しても、友達の体力は上がらない。では、手伝うことは可能だろう。

成長を手伝うのは可能である。教師は成長を手伝う職業である。お互いに成長する場合と違って、教師の方が特に成長しない場合もある。確かに、実際に教えれば、自分も意外と成長することに気づくが、そうしない場合もある。例えば、内容はもうよくわかるし、生徒が特に刺激する質問しない場合、生徒の成長に貢献するが、自分が成長しない。

このような行動を評価する。産霊の一種であると位置付ける。ただし、他の成長や創造より高く評価するわけではない。他人の成長を支えることも、自分の成長を進めることも、同じような価値があると言えよう。

創造を手伝うことはできるのか。これは難しい。上述のように、協働創造を行うことはできるが、それはただの支援ではない。参加である。問題は、創造の場合、ただの支援に当たる行動が存在するのか。例えば、映画の撮影現場にお弁当を届ける人は、創造を支援するか、創造に参加するか。この問題はすぐに解決できないが、どちらにせよ、産霊の表現であるので、評価する。その為、厳しく区別する形式を追求する必要はなさそうである。

他人を支援したい場合、相手の産霊を支援するのは良かろう。そうするために、勝手に相手は何をしているかを決めるのではなく、相手の目指す創造や成長を丁寧に把握してから手伝うのが良い。これも、惟神の道の他の要素と深く関わる。

その上、産霊を基本態度と位置付けたい。自分の産霊も他人の産霊も発揮されるように動くのは基調とする。状況がややこしくなれば、この基本態度で正しい道を選ぶことはできないが、その為に惟神の道の他の部分もある。それでも、産霊は基盤となる。多くの場合、充分な指標となるし、足りない場合でも、見失ってはならない指標でもある。

惟神の道の行き先は、創造と成長が溢れる世界である。

1 コメント

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  • 立場が異なろうとも呉越同舟、一徳一心、互いに切磋琢磨できる関係が望ましい。
    子も異なる人格として尊重し、教導するのが望ましい。

    お味噌汁のことを御御御付けというのを初めて知った。
    https://macaro-ni.jp/34206

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