アメリカの文化と日本の文化を対比する際、アメリカは個人主義で、日本は集団主義であるとよく言われる。もちろん、これほど簡潔ではないが、完全な的外れでもない。日本で、共同体意識がアメリカより重視されている。
共同体意識とは、自分をある共同体の一員として感じて、共同体の利益のために当然動く精神である。自分の利益と共同体の利益に優先順位をつけるのは難しい場合があるだろう。共同体の利益を優先するとは限らないが、少なくとも共同体の利益も確保するように動く。重要なのは、共同体の利益を当然考えることである。
共同体には、複数の人間が存在するのは必須である。一人であれば、まだ共同体になっていない。だけど、誰が共同体の内になるのは難しい問題である。原則として、二つの必要条件がある。まず、その人本人は共同体の一員であることを感じなければならない。そして、他の共同体の員はその人を一員として認めなければならない。この二つの必要条件を両方満たせば、十分条件を構成する。これでいいだろう。ただし、ここで出た「他の共同体の員」は、どうやって共同体の員として認められるだろう。
例えば、甲さんと乙さんが共同体を構成しようとしたら、それぞれ共同体意識を持って、お互いに共同体の一員として認め合うのは必要である。乙さんは甲さんを認めなければ、共同体にはなっていない。共同体を小さな種から育てる場合、最初に話し合いに基づいて築くことは多いのではないか。
では、より大きな共同体を考えよう。数十人規模としよう。共同体意識と認め合いが成り立てば、共同体になる。問題の場合を考えよう。
甲さんは、共同体意識を持っていない。自分は、その共同体の一員ではないと思っている。それでも、共同体から一員として認めてもらっている。この場合、どうなるだろう。簡単にいえば、甲さんは共同体の一員ではない。そう感じなければ、必要条件は満たされていない。共同体の一員になる為に、本人の同意は必要不可欠である。だから、国家は共同体ではない。国境の中に住んでいる人は皆法律に拘束されているが、それは国に対する意識に関係はない。強制的な団体はそもそも共同体ではないのだ。
一方、乙さんは共同体の一員だと感じるが、認めてもらわない。この場合でも、共同体の一員ではないのである。この場合も、必要条件は満たされていない。勝手に共同体に入会できない。
消極的に共同体になる集団もある。例えば、甲さんは集団に対する強い抵抗感を持つし、活動に賛同できないことは多いが、それでもその集団の一員だと感じて、他の人も認める。お互いに批判するし、甲さんは「本当の一員ではない」とも批判されるのだろうが、そのような批判することこそ、一員として認めている証拠である。共同体の一員であるからと言って、必ずしも共同体の活動に賛同するとは限らない。
難しい問題は、意見が分ける場合である。例えば、甲さんはある百人の共同体の一員である意識を持っている。そして、共同体の中で、五十人が甲さんを認める。しかし、五十人は認めない。乙さんも同じ状況に置かれているが、乙さんを認める五十人のうち、二十五人が甲さんを認めるが、二十五人が甲さんを認めない。甲さんと乙さんは共同体の一員であるかどうかは、本格的に曖昧であると思われる。しかし、このような問題は珍しいとも思える。大きな共同体で、一部が認めたら、残りは普段消極的に認めるので、共同体の一員になる。(因みに、共同体とアイデンティティは違う。アイデンティティは本人一人の問題で、共同体の構造は集団の問題である。)
本人の意識は必要だから、強制的に共同体に入らせることはできない。血縁の家族も強制的な共同体ではないが、大半の場合、家族の中で育った人は一員の意識を持つだろう。例外の場合、その人は家族の共同体の一部ではない。村落も同じである。村落の地区に住んでいるからといって、共同体の一員になるとは限らない。室町時代から住み着いた家族が認めない場合もあるし、先祖代々が鎌倉時代まで遡るにも関わらず村落の利益を考えない場合もある。だから、法律などで共同体意識を押し付けることはそもそもできない。そのような政策を提唱する人は根本的に間違っていると思わざるを得ない。憲法に書き込もうとするのは極端の間違いである。
国家の役割は、共同体の構成を制度的に支援することにとどまる。これで、重要な配慮すべき点がある。共同体が存在すれば、その共同体員は全ての人に対して公平にしない。共同体を他人より優先する。それは、共同体の利益を考えることである。このような不公平を認めないと、共同体を事実上否定する。西洋の文化で、共同体を否定する傾向は強い。最近、反発が起き上がったが、主流はまだ個人個人を考える。日本が同じ道を歩む必要はない。共同体は人間にとって重要な組織であるので、支えることには意義がある。しかし、意志の尊厳を侵すことも少なくないので、具体的に考える場合、慎重に考えなければならない。
國家行政による共同体意識の涵養として何が挙げられるだろうか?
國家神道の時代ならば家庭なら神棚、そして氏神神社はその地域の共同体の紐帯を為す最たるものですが、勿論、國體である皇室も民族國家たる日本の一徳一心の中核たる存在でしょう。
実際に御國は、皇祖神天照大神からなる皇室を拝戴する民族國家なのは云うまでもありません。
他にはその地域の伝説や民謡なども紐帯を為す産物ですし、國語や歴史も國家という共同体の意識を涵養するための重要な要素だと思います。民族の三要素は神話と歴史、そして言語を共有する集団と定義されているのですから。よって、制度的に支援する対象は、その地域の風土を為す民謡や伝説を啓発することと、公教育の場で歴史や國語教育(そして神話)を充実させることだと思います。
よくよく考えれば、ボランティア活動も地域の共同体意識涵養のための活動ですね。
コメントをありがとうございます。
これは難しい問題だと思います。一方、国家が共同体意識を無視すれば、それほど生じるとは思い難いのです。他方、「民族国家」の概念は、歴史的にも現代的にも悪用された例は圧倒的に多いですので、慎重に扱うべきだと思います。特に、「民族国家」は移民に対して排他的になる傾向は極めて強いですが、個人的に好ましくないのはいうまでもないでしょう。
それより基本的な問題は、国家と共同体の本質は根本的に違うことがあると思います。共同体は記事の通りですが、国家は強制的で、国土に滞在する国民として認めない人に対しても強制的に義務を課す存在です。住民の国家に対する態度にも関わらず、法律に従わせる行為は国家の本来の役割です。つまり、国家自体を共同体として考えるのは大きな間違いだと思います。
では、民族は存在しないかと聞かれたら、そうでもないのです。仰る通り、歴史、神話、言語を共有する人たちが民族の条件を満たします。そして、その人の間に共同体意識があれば、大きな共同体であると言えるのではないでしょうか。しかし、その共有の中の先祖の末裔が皆そう感じるとは限らないでしょう。例えば、アメリカに移住した日本人の子孫は日本の民族の一部であると思わない可能性がある。そして、日本の国籍を取得した在日コリアン系の国民も、大和民族の一員であると思う可能性は低いと思わざるを得ません。白人の私が自分の大和民族の一人と考えたとしても、認めてもらうかどうかは疑わしいのです。
そのため、民族を国家と相当することはできないと私は思います。
神社検定一級を所持しているのなら其れで十分かと。
後は大人しく過ごしてくれれば。
ところで、漢字検定の進捗状況は?
親子交流、そして日本語の勉強になるし入試対策になる云々と。
ありがとうございます。漢検ですが、娘の計画は順調行っている一方、私は挫折しています。優先するかどうか、すぐに決めなければなりません。