村社会

日本社会の構成には、移民にとって問題になる要素がある。その要素は嫌悪は愚か、偏見にも、先入観にも基づいていない。構成的な問題である。

日本には村社会があると言われる。神道の文化で良く見える。多くの民社の宮司は踏襲であるし、氏子になるためにその神社の周辺に代々住んできた家の長である資格がある。

このような条件は最初から移民を排除する。

日本人であれば、自分の故郷があるので、ふるさと納税したり、祭のために帰省したりすることはできる。それで、共同体の絆を結ぶことはできる。しかし、移民には日本の古里はない。帰省する為に出国しなければならないが、そうしても日本の文化に参加させてもらうわけはない。外国に行ったからだ。

この問題は移民を対象としないので、問題を体験する人も移民に限らない。日本の人口が流動的になる次第、日本出身の日本人にも社会参加が難しくなる。9月17日の『神社新報』の社説で、ずっと同じ場所に住んだが仕事のために町内会などに参加できなかった人さえ、定年後参加できない場合は多いと嘆いて、改善策の模索を促した。

これは、会社の新卒入社を重視する現象に似ていると思う。つまり、日本の社会である組織に入会できる時期は決まっていて、その後入会できない傾向があるし、その入会できる時期は早い傾向も強い。出雲大社の宮司の場合、その入会時点は1400年ぐらい前であるので、その時点で祖先が既に出雲国造になっていなかったら、出雲大社の宮司にはなれない。

確かに、出雲大社の宮司になれるかどうかは社会問題に至らない。しかし、その傾向が広く見える。これは複数の人に問題をもたらす。移民は特に問題になりがちであるが、それだけではない。親が仕事のために転移した子供が新しい古里に馴染めないことは多いそうだ。十代にキャリアをはっきり選ぶことはできなかった人は、20代になってもう選択肢が極めて限られてきたことに気づく。40代でキャリアを変更しようとする人は、大きな壁を越えないといけない。

人の編入を許す社会構成は必要だと思う。もう変えられない過去を条件とせず、少なくともこれからの努力で満たすことは論理的に無理ではない条件を設けるべきであると思う。例えば、会長になるために合計20年間その会のために働いた条件を設定したら、50代に入会する人が会長になる可能性は低いが、無理ではない。一方、20歳になる前に入会したことを条件とすれば、21歳になった人はもう絶望的である。

問題になる壁は、組織毎に違うが、改善するための基本は外からの人の受け入れる体制を用意することである。そうすれば、当然移民も参加できるようになるので、人種差別に誤解される要素がもう一つ解消される。

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