穢れと祭り

惟神の道であれば、穢れと祭りの関係を考えなければならない。

基本は、祭りは穢れのない行動である。穢れのない場所で穢れのない人によって執り行われる。

産霊は祭りの中で確保できる存在ではない。祭りで促進するのは良いが、祭りがある戦略の一環に過ぎないと思われる。だから、祭りで主に汚れが気になる。

そのため、斎場を物理的に綺麗にするし、祭員を物理的に綺麗にする。そして、祭具などを適切な場所に置いておく。

汚れを避けるために、全てが適切な場所にいるのは重要である。その上、参列する人が皆そのように感じるのが重要である。つまり、適切は場所や所作を知っているし、目の前でその通りになっていることが確認できることは祭りに重要である。

それは、式である。所作などは決まっている理由は、参列者は汚れを感じないことであると言えよう。神様も同じである。神様が乱れや汚れを感じたら、祭りが台無しになるので、式を厳守して、伝統を厳守して祭りを行うのは適切である。そして、参列者が式の内容をわからなくても、式の存在を知っていれば、見る所作などは式次第に従っていると推測するので、穢れを感じない。

祭りの場合、穢れはその祭りの式に従わないことである。

だから、祭りの伝統で女性がある場所に入らないことになったら、女性が入ったら穢れになる。祭りの伝統で参列者がスーツを着用したら、ジーンズで参列することは穢れである。

しかし、このような穢れはただ決まりとの照り合わせに過ぎない。そう決まっているからこそ穢れになる。決まりを変えたら、穢れではなくなる。だから女神輿や裸祭りは可能である。その祭りのために、伝統は変えられている。

こう考えれば、産霊や結びを広く考えれば、祭りの決まりを批判することはできる。女性を排除する決まりは良くないと言えるし、服装の高基準を強いることで低所得者を排除する決まりも良くないと言えよう。式の内容を考察して、必要に応じて修正するのは惟神の道の立場から見れば適切な行為である。そして、変更を事前の公表すべきである。人間だけを対象とせずに、神前にも奉告すべきだろう。祭祀の前提は神様の存在と降臨であるので、儀式でそれを無視してはいけない。

式の内容を適切にした場合でも、事前の修祓が必要になる。なぜかというと、人間にはいつも穢れがあるからである。失敗や襲いや矛盾から発生した穢れをいつも持っている。だから、祭りの前に祓でその穢れを流す。祓を受けた人は、穢れのない人として見立てられる。実際に穢れを無くしたわけではないが、祭りの場のための見立てを確保する。勿論、出来るだけ穢れを本当に無くすべきであるが、完全に無くすことはできない。祓は補完する。

穢れのない状態は祭りの目的ではない。祭りの前提である。だから、目的の達成に相応しい儀式を用意するのは重要である。それができたら、祭りを厳粛に執り行うべきである。

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