環境条項

最近、国の憲法に環境条項を盛り込む動きが強まっているのではないかと感じる。

環境を保護するために、できれば迅速に新しく発見された事実に対応すべきであるが、憲法に記載されていなくても、国家はこのような対応に成功しているとは到底言えない。対応できる前に憲法改正が必要となったら、もう終わりだ。だから、憲法に条項を加えたら、特に抽象的にすべきである。

文言で問題を特定せずに、対応を特定せずに、有意義な制限を国に課すことは容易ではなかろう。司法の解釈が重要になるのは避けられないので、憲法で裁判官がどのような事実を考察して判断するか、そしてどのような行為について判断するかを明記すべきである。

まず、行動の種類を考えよう。勿論、国の行動を制限する。しかし、民間企業を自由にさせると、環境が破壊される。現状を見れば、そうなっているので、疑う余地はない。そのような行為をやめさせるために、国が規制を設けるべきである。そして、国が環境破壊をもたらす行為を避けながら、環境を保護する行為を行うべきである。

だから、求められることとして、「に必要な措置を講じる」のような文言が良いのではないか。国土交通省のダム建設は明らかに含まれているし、温室効果ガスの排出制限を課す法律の立法も含まれる。

そして、何に必要かという根本的な問題がある。「環境保存」と挙げることはあるが、それは抽象すぎる。何があっても、環境がある。真空の高放射線があるところにも環境がある。一方、環境には変更は全くないことも望ましくない。完璧な保存が新しい建物を建てることを禁じるし、古い建物の解体も禁じる。その上、自然環境の現状は良くないので、このままの保存ではなく、改善が求められる。

しかし、そういうと、「改善」の基準が喫緊な問題になる。地球温暖化を止めるべきだと言われるが、恐竜の時代に地球の平均温度は今より数度高かったそうだ。恐竜はかっこいいので、その状態に戻るべきであると強調する人がいるかもしれないが(主に男の子だろうが)、憲法の基準にならない。

私は、環境問題に二つの側面があると思う。一つは人間の文明環境である。もう一つは生物多様性である。

今の文明を維持するために、急激な気候変動を避けなければならない。アメリカの農業地帯が急に小麦やトウモロコシを提供できなくなったら、大飢饉になる可能性は高い。(これは本当の恐れである。)その場合、現在の文明が維持されない恐れは高い。数十億人が餓死すれば、文明崩壊になる。これほど大きな問題ではなくても、日本で水稲農業が無理になったら、日本の文明が大きな打撃を受ける。(これも可能である。)文明が維持できる環境を保つのは重要である。

そして、生物多様性である。これは人間の立場以外から見ることである。他の生物を人間のために犠牲にするべきではない。(ここで、この主張を検証することはできないが、別途でまた論じたいと思う。)急激な気候変動や汚染などが生物多様性に打撃を与えるのは明らかである。最大絶滅に入っていることが知られている。

だから、「文明と生物多様性を維持する環境を確保するに必要な措置を講じる」ことになる。

まだ終わっていない。環境は、最速で数十年程度で変わる。(核戦争のような極端な場合を除けば。)その上、今与えた被害を直すために数百年が必要になることは少なくない。だから、長期的に考えなければならない。

国は長期的に文明と生物多様性を維持する環境を確保するように、必要な措置を講じる。

しかし、憲法違反を裁判に訴えるための条件は日本で厳しい。だから、これも憲法に加えなければならない。

何人でも、国がこの条項の義務を果たしていないとして訴訟できる。裁判で国が怠っていることが判断されたら、必要な措置を講じるように国に命じることができる。

政府が最高裁判所を無視する場合どうするかは、憲法で解決できないので、これで憲法の限度に達しているのではないか。

このような条項があったら、現在の社会に大きな影響を与える。このように改正した方が良いと思うが、可能性は低いのではないかと思わざるを得ない。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

最近の投稿

最近のコメント

アーカイブ

カテゴリー

メタ情報