神社の本質

神社の祭祀を考える前に、神社の本質等を考えなければならない。神社と神棚の違いは何だろう。神社本庁によると、神社は「土の上、空の下」であると言われると聞いたことがあるが、それはただ他の建物の中に存在できない。(そのため、神社本庁の神殿は神社ではないし、「神社」と呼ぶことも一回も見たことはない。)しかし、それは表面的な特徴であると感じるのではないだろうか。より根本的な特徴を考えた方が良い。

始まる前に疑問が浮上する。神社には一つの特徴が存在するのか、と。確かにそうではない可能性は十分ある。神道の多様性が目立つので、神社の本質にも現れてもおかしくない。しかし、質が根本的に異なれば、適切な祭祀も異なるのではないか。古代には多かった氏神信仰で氏族のみが参拝できた原則があったそうだから、そのような概念に基づいた施設には公開する必要はない。一方、現在の神社本庁の神社の定義の一部は、一般公開されていることである。だから、屋敷地に鎮座する祠は、神社に該当しない。一般の人は参拝できないからである。このような違いがあれば、適切な祭祀も異なってくるに違いない。敷地神の場合、家庭祭祀の延長線上に立つと思われるが、公開された神社は少なくとも一般的な地域社会と深い関係を持つべきであろう。

だから、ここで神社の祭祀について考えたければ、一つの本質を考えなければならない。結局、その本質から逸脱する施設も「神社」と呼ぶべき場合があるかもしれない。語彙の使用範囲を決めるつもりではない。寧ろ、施設の本質を決めるつもりである。

それを前提として、「神社」は何だろう。

最初の試しとして、これはどうだろう。

神社は、神が鎮座して、祀られる場所。

すぐに問題が発生する。神棚もそれにあたるので、この定義で神社と神棚は異ならない。しかし、本当は違うと思う。

神社のイメージを考えれば、敷地があり、社殿があり、鎮守の杜がある施設が思い浮かぶだろう。その中で、何が必要なのだろうか。神祭りに専用される施設であることなのではないか。だが、神棚も専用である。神棚に洗濯物を干さないし。専用の建物を条件とすれば、歴史的な神籬や磐座を神社の定義から外すし、敷地内の祠が神社になる。しかし、神社祭祀の本質と家庭祭祀の本質には根本的な違いがあると思わざるを得ない。

これで、神社本庁の定義からヒントを受けたいと思う。神社で、神様を拝む人を特定しない。原則として、誰でもこの施設で拝むことはできる。古代の氏神信仰が除外されるが、それで良かろう。それは、氏族に限られる信仰は神棚や家庭祭祀の拡大版になるからである。

とりあえず、下記の通りにしよう。

神社は、神が鎮座して、神を祀ることに専用された参拝者を特定して制限しない施設である。

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