基本概念

神の為の祭りがどのような形を取るのだろうか。今の時点で、神の質がよくわからないが、神道の伝統に基づいて考える。

鎌倉時代の御成敗式目では有名な第一条がある。

神は人の敬によって威を増し、人は神の徳によって運を添う。

これで考えれば、神の為の祭りでは敬いを形とするのは相応しいと思える。勿論、祈願祭でも畏敬を表意するが、神の為の祭りでそれは中心となる。

では、神に畏敬を表す方法は、具体的に何だろう。

まず、穢れのない状態で祀ることは大前提である。斎主の潔斎と斎場の御祓はとても重要である。

そして、神饌の奉納も重要である。神宝の奉納も芸能の奉納も畏敬の表現となるので、検討すべきであろう。

その上、祝詞の中で神への尊敬を表現するのは良い。この具体的な内容は、後で考えたいと思う。

ただし、ここで問題が思い浮かんでくる。人間に尊敬を表意する場合、まずは相手の意志を尊重する。相手が嫌う行動で尊敬を表現しようとしたら、まず失敗するが、実は尊敬していないことも明らかになる。尊敬していたら、相手の意志を尊重するからであある。神の意志をどうやって尊重できるのか。

これはまた神道の歴史で仮説する。神道の歴史を見れば、亀卜や神憑り、うけいなどの神の御神託をいただく為の方法があった。記録に残るものは、主に人間の意欲に関わる内容であるが、神を中心とすることもできるだろう。この行為も、神の為の祭りに導入しなければならないと思う。相手の意思がわからない場合、尊敬を表意しようとしながら、相手の意思を探る行為は、少なくとも不敬にはならない。そのような扱いを受けたら、殆どの人は誤りを許して、尊敬として受け止めるだろう。

これは占いである。しかし、神から将来を占ったり、他人の心を占ったりしない。神にはそのようなことがわかるかどうかは、不明である。記紀神話では、天照大神には須佐之男神の心さえ見通せなかったので、神がなんでも知っている前提は神道の中で掲げられていない。将来どころか、神の意思や好みを占おうとしたら、少なくとも神が答えを知っていることを確信できる。神の存在はまだ仮説に過ぎないし、占いの方法も仮説だけだが、神が知っているかどうかという悩みを捨てても良かろう。(人間のように自分の心を誤解したり偽ったりすることもあるだろうが、それでも相手を尊敬することには支障はない。明らかに自分の気持ちを誤解している人の言う通りに行うことは、尊敬の一種である。)

要するに、神の為の祭りで神道の伝統に則って尊敬を表するし、占いを使って神の意思を探る。この二つを導入すれば、神が存在したら尊敬を本当に表意している。片方を怠ったら、そうしていない可能性は高い。明治時代の官僚が定めた式次第が神の意思に従うとは限らないからである。

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