常若と常世

神社祭祀で「常若」という概念が見える。特に、伊勢の神宮の式年遷宮の説明でよく使われる表現である。その場合、意味は神宮の神殿などの建物等を20年毎に建て替えることで、神宮が永遠まで瑞々しく続く現象である。1300年以上の歴史を持つ神宮だが、一番古い建物は戦後に建てられただろう。同じ祭祀や行動を繰り返して、永遠まで続くという理念である。

これは、神社の祭祀で重要であると私は思う。神職や総代が死ぬが、その後継者が祭祀を続ける。社殿が老朽化するが、建て替えて神社を存続させる。変更の中で不変である。それは常若の概念であるし、常世の実現でもある。

確かに、もはや後継者問題が叫ばれて久しいが、ここでその問題を解決できるはずはない。過疎化と関連するし、社会構造の移ろいとも関わる。取り組むべき問題ではあるが、別な機会に託したいと思う。

ここで、理想について考えたいのである。理想を把握すれば、現実に適切に合わせることはできる。しかし、理想を把握せずに調整しようとしても、うまくいくはずはない。

簡単に言えば、神社以外の文明が崩壊したとしても、祭祀を継続できる状態を理想とする。自給自足の精神に近いだろう。

これは、地域社会の理想ではない。文明の全般に頼って豊かな生活を送ることは文明の主な成果であるので、必要なく手放すのは良くないとも言える。テレビを見たり、インタネットを使ったりすることを勧めたいのだ。ただし、祭祀は違うと思う。祭祀は日常生活の一部ではないことを別なところでも強調したが、このように違った方が良い理由は何だろう。

先ずは、永続を確保するための手法である。神社の管轄外の存在に必然的に頼れば、それがなくなると、祭祀が余儀なく途絶えさせられる。勿論、太陽に頼るしかないし、大震災で境内が完全に沈没すれば仕方がないので、程度の問題になるが、依存度をなるべく抑えるべきであると思う。

そして、神社毎の伝統を重視して継承すべきであるが、共有された工場などに頼れば、神社の習慣が自然に統一されてしまう。意識は不要である。ただ同じ業者から入手したら、同じものになる。しかし、神社が全ての用品を自力で整えたら、その神社の伝統に適った祭具等を入手することはできる。この場合、逆に神社毎の相違点が自然に発生する。

これは、物だけではない。人も含まれている。原則として、神職養成も神社が担うべきだと思う。

このような状態であれば、周りの世界が積極的に神社の祭祀に邪魔しない限り、永続できる。消極的な邪魔を無視することはできる。そして、神社の独自の伝統が保護される。

ただし、現実的ではないのは明白だろう。この状況に近づく神社は神宮しかない。神宮でも、実際に周りの社会に大きく依存する。だから、理想に近づく方法を考えつつ、その限度を潔く認めなければならない。

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