社家と宮座

神社で祭祀を行う最低限の必要な要素は祭員の存在である。専任ではなくても良いが、祭祀を行う人はいなければ、祭祀が行われない。現在の神社界の実情を見渡せば、これは一番の問題になっているのではないかと思われる。所謂後継者問題である。

では、そのような問題が発生しないように、どのような制度が良いのだろうか。神道の歴史と現状から言葉を借りて、社家と宮座を提案する。

社家はほぼ一般の利用通りである。ある家族が神社の祭祀を代々担うことである。社家の子供が幼い頃から祭祀に携わって、当然に神職になって祭祀を継続させることである。社家を掲げる理由は主に二つある。

先ずは、家族の中で次世代が作られることである。子供を産むのは普通であるので、後継者も自給自足になる。そして、社家の中で育つ人は神社の伝統を自然に吸収する。特別な養成講座は不要になる場合もある。(現行の制度でそうではないが。)これで、後継者不在の原因を防ぐことはできる。

しかし、完璧な防止策ではない。先ず、子孫が途絶えることがある。配偶者は必要であるが、見つからない場合もある。そして、不妊で子供が生まれてこないこともある。ところで、この観点から男女平等は重要である。子供が平均三人でも、8回に1回男子が生まれないので、男子に拘ると途絶える恐れが無用に高まる。その上、次世代に神明奉仕を強制するわけにはいかないので、男子がいても別な生活を望むことはあるので、女子も最初から候補として認めるべきである。

ちょっと断っておきたいことは、ここで重要なのは、血統ではない。後継者が自然に育つ環境を作ることは目的であるので、養子を迎えることも十分可能である。同じように、遠い親戚を養子とする必要は全くない。血統を重視する理由があるかもしれないが、あれば、別な根拠になる。つまり、社家が途絶えようとすれば、養子で将来を確保することは考えても良い。

その上、上にも触れたが、子孫に継承を強いることはできない。人権侵害になるし、効果は期待できない。役割を担いたくない人に無理矢理させたら、伝統が維持されていくとは到底思えない。抵抗感を感じながら、自分の宿命として担う人は違う。そのような人は一所懸命奉仕しないかもしれないが、自分が感じる義務を果たすための最低限をやり遂げると思える。養子でも同じである。赤ちゃんや幼児として迎えるので、大人になったら奉仕する意思を持つとは限らない。この可能性を事前に求めるべきである。

最後に、社家に災害等があって、急に皆が亡くなる可能性もある。疫病や津波でそのような悲劇は起こり得る。永続を目指せば、千年に一度の大震災は数回起きると予想すべきだ。

その場合、宮座が機能する。ここでの「宮座」は歴史的な使い方とちょっと違う。近所に住んで、神社の祭祀に常時から参加して、全ての作法や業務を担うための技能を持つ人である。一人一人が神職のように全てができる必要はないが、皆合わせて担えることは重要である。そして、社家が途絶えたら、宮座から新しく社家を設立することは予想されている状況とする。

社家は、必然的に閉ざされている。その家族の一員ではなければ、おしまいである。一方、宮座を解放すべきである。近所に引っ越してくる人が興味を持てば、宮座になることを許さなければならない。もちろん、祭祀への参加や伝統の研修は必要であるが、およそ10年間で一人前に宮座になれる設定は良いと思う。それは、宮座が近所を離れたり家が途絶えたりすることがあるからだ。長期的に考えれば、ある宮座がなくなるのは必然的である。それが全面的な絶滅に繋がらないように、新しく受け入れるしかない。そして、それを危機になった時点で導入しようとすれば、伝統を変えることになるので抵抗する人は少なくない。だから、常時から新しい宮座を歓迎するべきである。宮座の目的は、宮座の特権を保つことではなく、祭祀の永続を保障することである。社家も同じだ。

これで、将来に亘り祭員の存在をできる限り確保できると思う。しかし、人間だけで祭祀を執り行うことはできないので、必要な措置をも考えなければならない。

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