供物

供物

祭主がいれば、次に必要となるのは供物だろう。供物なき祭祀はあり得ない。

一つの方法は、供物を神職の食事と同じものとする方針である。そうすれば、神職が食べている限り、供物が途絶えない。しかし、信仰の立場から考えれば、これはちょっと違うことは明らかであろう。勿論、神職の栄養を確保しないと祭祀が途絶えるが、それはちょっと離れる問題だとしよう。ここで、供物を狭義で捉えて、神職の食事と別な問題として考えたい。

神社以外の文明に頼らないこととすれば、供物を自給自足とするのは基本である。珍しいものとして外からの物を供えることも許しても構わないが、基本の供物を神社の周りで神社人の自力で整える必要がある。

それは、伊勢の神宮でほぼできていることであるが、大掛かりなことである。神田だけはなく、御園もあるし、塩田も漁業場もある。できれば、このような仕組みは良いが、非現実的であるので、頑張れば実現できるレベルから始まった方が良かろう。

供物の基本の基本はお米とお水とする。この二つを確保するために、田圃と井戸は必要である。そして、田圃を耕すための技能も井戸を維持する技能も必要である。その上、田圃の耕しに機械に頼れば、文明の他の部分に頼ることになるので、手作業でやるべきである。少なくとも、手作業するための技能を維持するための範囲で手作業で耕して、残りに機械を使うべきだ。同じように、農薬に頼るべきではない。その供給が途絶えることは可能であるからだ。これは効率的な農業ではないし、農村の経済的な基盤にはなることもできないが、祭祀の基盤の質は違う。

農具も、なるべく社家や宮座の輪の中で整えるようにするのは良い。歴史的にある程度できたので、再現できるに違いないが、私は全く詳しくないので、何とも言えない。金属を買い取る必要があるかもしれないが、再利用等でその需要を最低限に抑えたり、将来に備える備蓄も考えられるのではないか。

このように考えれば、「伝統的な農業」になると見えるだろう。実は、違う。基本は、宮座の輪の中でできることであるので、先祖が使った方法に従う必要はない。最近の科学的な知識を導入して、より環境に優しい、持続可能な方法を導入するのは良い。最先端の技術の一種になる可能性もある。それも伝統的である。ご飯は初めて神様に供えられた時点で、稲作は最先端の技術だったのではないか。それと同じである。

井戸の維持にも似ている側面がある。井戸を維持するために、地下水には汚染がないように、そして絶えないように周りの環境を保全しなければならない。表面しか見なかったら、これも「伝統的な風景」に間違えられるだろうが、田圃と同じように違うこともある。歴史的な方法で過去に把握できなかった汚染が発生することもあり得るので、それを避けるために現在の新しいやり方を導入すべきだろう。

このように考えれば、お米とお水でもう十分だろう。供物の種類を増やすことは、この基本を確保してからの問題になる。

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