神棚の祭祀には、神の存否が重要な要素になる。より厳密に言えば、神が神棚に存在するかどうかが重要である。神が存在しないと、拝礼がただ精神的な行為になる。そのような行動に大きな成果がある場合も少なくないので、それで軽視すべきではないが、本質が大きく変わることは間違いない。
実は、神社本庁等の神道を代表する組織の見解も曖昧である。神棚に奉斎するお札には神様が鎮座するかどうかは、持論が分かれるそうだ。そして、お札に神霊はないと主張する人の中で、遥拝の施設になると主張する人がいる。確かに、神棚に鎮座するか、遥拝するかは重要な違いであるが、神の存否の立場から変わらない。少なくとも、今の段階で区別することはできない。そして、お札はただの象徴で、特に霊力はないと主張する人もいる。神社界の中でそのような人は少数派であるような気がするが、確かに存在する。
この問題を解決しないと、適切な神棚祭祀を見出すことは当然できない。では、検討できるのだろう。勿論、お札の中を見るのは適切な検討方法ではない。神が存在しても、お札の中で見える存在ではない。
神社祭祀の場合、同じ課題を掲げたので、同じような方向で考えれば良いだろう。
実験の創作の大前提は、神には意識があることである。それは最初から結論ありきに検討する意味ではない。ただ、神には意識があることは仮設の一つの可能性である。そして、神に意識はなければ、特に存在しないから意識はなければ、どう行動しても神に対して残虐等にはならない。神には立場はないので、残虐の被害者たる存在さえないからだ。一方、神に意識があれば、それは違う。だから、実験が残酷にならないように、意識があることを構造の前提とする。結果の分析の場合、その前提は当然ない。
これで問題になるのは、適切な行動の質である。神について何も知らない。だからこそ実験を提案している。しかし、何も知らない場合、どうすれば良いかも知らない。海の魚を淡水に入れたら、魚が死ぬこともある。このように無知で酷いことをする恐れはある。ただし、何も知らない状態だから、何もしないことが酷い結果をもたらす可能性もある。知識を求めて、その得た知識に基づいて将来の適切な行動を決めることだ。
しかし、出発点は必要である。神社の祭祀と同じように、神道の伝統を出発点とすれば良い。現在の神棚祭祀の作法は意外と最近のことだが、100年以上の歴史を持つことには変わりはない。だから、直ぐに災害を齎さないことは既に証明されている。検討の成果で作法を変えることも予想できるが、出発点としてて、適切であると私は思う。
では、具体的にどうすれば良いのだろう。