多様性を尊重する社会で、子育てが深刻な問題になる。
簡単に言えば、本格的な多様性を有する社会で、理想についての意見が分かれる。その場合、ある人から見れば、悪質な理念を保持する人がその社会で生活を送る。悪質な理念を持てば、子供を悪質な方針で育てるのは当然だ。これで、問題が発生する。悪質な子育てを認めないと、多様性を尊重していない。子育ては人生の理念の中心的な部分だから、除外したら理念に大きな打撃を与える。一方、子供を大人の悪行から守ることも社会の責務である。放置してはいけない。
世界を見ればすぐに分かる例がある。キリスト教とユダヤ教を考えよう。キリスト教から判断すれば、ユダヤ教で子供を育てれば、あの子供が永遠に地獄で苦しむ可能性が高まる。その上、男の子であれば、宗教の理念のため性器の一部を切り離す。そのような行為を許すものか、と思う人もいるだろう。しかし、ユダヤ人に子育てを禁じることも、ユダヤ教の伝承を禁じることも、ユダヤ教を禁じる行為とそれほど異ならない。
さらに、儒教のある解釈で、子供が親のために存在する。子育てで、子供の利益より父親の利益を考えるべきだと主張する。(現在の儒教でこの考え方がどれほど普及しているか分からないけれども。)多様性を尊重する社会の基盤は、それぞれの個人に自分の理念に従って自分の利益を求める権利を保護することだ。しかし、この場合他人の利益のために生きることが子供に強いられる。多様性を尊重するために妨げるべきだと思えるが、そうするとこのような儒教を禁じることになる。子孫を設けることは儒教の中心的な理念であるからだ。
確かに、多様性を尊重するために他人を支配する行動を制限しなければならない。大人の場合、本人の同意を前提とすることで問題を基本的に解決できる。(確かに、細かい問題が残るか、その問題は理念の実現と関係する。理念自体には問題はない。)しかし、子供の場合そうできない。乳児であれば、そもそも同意できない。脳の発達はまだその段階に至っていないからだ。幼児や児童になっても、子育てで子供の同意を問わずやったりやらせたりすることは少なくない。親の経験のある人はこの点を痛感するだろう。子供の同意を得ることを最大限に実現しても、子供を否応なくさせなければならない場合がある。
だから、保護者に子に対して何を強制させるのかは、難しい問題だ。善意に基づく行為に限ることはできない。多様性を尊重する社会で、住民が「善意」について根本的に違う。「悪意」を許すしかない。それでも子供を守るべきだ。真正面から衝突する理念だ。
これからの投稿で、この問題を論じたいと思う。