基本方針

多様性を尊重するつもりの国家であれば、原則として保護者の子育て方針を許すべきだ。実は、多くの場合、その方針で大きな問題が発生しない。なぜなら、保護者が子を愛することは一般的であるからだ。それでも、完全に放置してはいけない。愛情を感じない保護者も存在するし、子供を育てる方針を大きく間違える保護者も存在する。国家の政策として子供を犠牲としてはいけない。

子供は、育ててもらわないと生きられない。その一部は、保護者が子供の行動を制御したり、食べ物等を決めたりすることだ。つまり、保護者の権利を広く認めるしかない。「認めない」方針を導入しようとすれば、行政の職員が子育てをきめ細かく監視して、定まった範囲を逸脱したら干渉する事になるが、その場合行政の職員が事実上の保護者になる。保護者の権利をまだ認めているので、認めない選択肢は事実上存在しない。それでも、子供を守らなければならない。だから、問題は、保護者の権利を制限する基準である。

基本的な基準として、二つを掲げたい。

まず、多様性を尊重する社会を目指すことを前提とする。だから、保護者の方針の内容に同意できないことを干与する根拠としてはいけない。さらに、保護者の方針は悪質であることも根拠としてはならない。現在のアメリカで、同性愛を容認する子育てを悪質と見なす人も、同性愛を容認しない子育てを悪質と見なす人もいる。この現実で、どの子育てでも、社会の一部が悪質であると断じる。ある人の子育てを強烈に批判することは許されるが、その子育てに邪魔をすることは許されない。

では、上記の方針だけでは子供を守らない。子供を守る方針は2本目の柱だ。子供(ここで、未成年)の場合、保護者の権利を認めなければならない。一方、多様性を尊重する場合、子供が大人になったら、保護者の権利を一切認めない。だから、子供に育ちに背く力を与えるのは基準の一つになる。大人になって、その育ちを容認すれば、そのまま続けても良いが、反抗すれば、脱出する力が必要となる。

この方針には容易に見出せる具体例がある。保護者には、子供を殺す権利はない。(一般に殺人は許されないが、子育てで普段許されないことを許さなければならない。だから、殺人でも、許さない根拠を見せなければならない。)子供を殺したら、背くことは当然できないからである。これは、暴力で殺す行為はもちろん、放置で餓死させる行為にも、必要な治療を拒否する行為にも及びます。

これは極端の話だが、極端ではない場合、両方の基準に照り合わせて、適切な判断をしなければならない。この二つの基準を照り合わせて、具体的な方針を論じるのは、今回の投稿の課題となる。

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