公の教育

子供の将来の選択の自由を確保するために、公の教育は必要だと思う。これは、保護者に習わせないことを許さない内容だ。一方、保護者に自分の理想にそって教育する余裕を残さなければならない。つまり、公の教育を最低限に抑えるべきだ。公立学校の教科と違う。もちろん、公立学校に通えば、公の教育も受けるが、他の内容も学ぶ。ここで、その必要不可欠の部分を考えたい。

この公の教育は絶対義務になる。保護者の宗教等によって免じないのはその意義である。要するに、保護者の宗教で特別な教育が指定されても、公の教育を加える。そして、その公の教育は、資格を持っている先生によって、国家が認可する施設で提供する。つまり、本当に与えていることを確認する。その結果、子供を一般社会から隔離して育てることは許されない。

私立学校で資格を持つ先生と認可された設備があれば、他の教科と一緒に教えたら良いので、一般社会からある程度の距離を保つことはできる。公の教育で、行政がいつでも視察しても良い状態で、そして国家試験で監視することは良いだろう。内容は正しく選ばれたら、多くの学校で教えることに抵抗感はないが、抵抗しようとする行為を阻止する措置も必要である。

この必須の教育の内容は、本当に基本の基本とすべきである。例えば、識字の基本と育児教育、生活に必要な法律や技能、健康維持の基本的な知識や行動、現在ならパソコンやネットの使い方などのことだ。歴史や文学や科学等は含まれていない。歴史等は大変重要な内容だが、公の教育の技能を使って後で学べることだ。その上、公立学校で公の教育以外の時限に教えるはずだ。

内容を具体的に決めるために、専門家の意見を聞く必要がある。自立して生活を送る基礎能力を与えることは目的だが、その「基礎能力」の範囲を判断するのは容易くない。今の学校教育に入っていない教科もある可能性は高い。例えば、社会で生きるための法律知識は一般に学校で教えていないようだが、法律が周知を前提とするので、その基本を教えるべきなのではないか。同じように、人間関係のコツも学校で教えていないが、うまくいかない人は少なくないので、教えたほうがいいのではないかと思える。一方、歴史を一切わからなくても、生活を送ることはできるので、公の教育から排除すべきだろう。

その排除の理由は、公の教育の限られた時間だ。保護者や学校に教育方針の自由も確保すべきである。それは、多様性を尊重するために必要である。そうするために、時間を譲らなければならない。そして、学校の時間の大半を譲ったほうがいいと思われる。結局、公の教育は週の1日に限る可能性は十分ある。その場合、実際に1日に詰め込んだほうが良い。その場合、家庭で教育を行う方針を持つ保護者は、子供を週一回近所の公立学校に通わせて、そのほかの日に自分の方針に沿った教育を行うことはできる。

公の教育は、前記の基本方針に基づいて、子供に自分で人生を選ぶ能力を与える。それ以外の教育は、保護者は選べる。それで、子供の権利と多様性を両立できると思う。

しかし、保護者の行動を直接的に制限する必要もある。子供を殺すことを禁じたり防いだりしなければならないが、どのぐらい制限すべきかはこの課題の一番深刻で厄介な問題だ。これから論じる。

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