養育

養育

子供を養わなければ、育たない。餓死等の放置は当然禁じたり防いだりすべきであるが、それに至らない養育であれば、どれほど干与すべきだろう。

例えば、幼い頃の栄養不足の悪影響が一生続く。身長も低くなるし、脳の活動も鈍くなる。一方、運動不足や肥満で、若いうちに糖尿病になる恐れもある。それほどではなくても、偏った栄養で体へ悪影響を与えることがある。

別な方向から見れば、子供に麻薬を使わせたら、人生に悪影響を与えるのは明白だから、養育に悪い要素を入れることにも警戒すべきだろう。

一方、肉を食わない人もいるし、宗教上食材を限る人もいる。そのような人に、子供を育てる余裕をなるべく確保したい。だから、食材等を指定してはいけないだろう。同じように、食べる量や体重には人間の間に差があるので、厳しく制限できない。

ここで、どうすべきであるかは具体的に言えない。これも、専門家の判断に委ねるべき内容だ。(この課題について、具体的な方針がこうなることは極めて多い。)ただ、その方針についてちょっと提案したい。

基本方針は、子供に人生を選べる自由を確保することだ。だから、人生の選択肢が不当に限られる養育を防ぐべきである。しかし、どの養育方針でも、限ることがある。身長がちゃんと伸びるように栄養を与えたら、背の低い人として生きる選択肢がなくなる。つまり、「長期的な被害はない」ということを基準とできない。

この問題を解決するために、まず、「重要な機能」を規定する。例えば、歩く力、見る力、肝臓がちゃんと機能する状態等。そして、子供である間でも保たなければならない基準を設けて、大人になったら本人が回復できる基準も設ける。つまり、保護者の方針で子供である間に能力が劣ることを許すが、基本的に大人になったら本人が回復できる範囲を逸脱しないように指定する。これが設定されたら、満たす方法を問わない。(これで、麻薬を禁じることになると思う。そうならないと、麻薬が長期的な被害を与えないことを意味する。長期的な被害があったら、基準を満たさないからだ。もちろん、大した被害はなければ、禁じるべきかどうかを再検討すべきだ。しかし、そうならないと思う。)

ここで、障碍者のことをちょっと考えなければならない。生まれながら見る力はない人が存在する。このような基準を設けることは、目の不自由な方に失礼なのではないかと訴える人もいる。失礼より、その障碍者の人間資格を否定する行為なのではないかという人もいる。

確かに、障碍者の障碍に焦点を当てたら、その人間性を見失うことがある。その上、ある特徴は「障碍」であるかどうかは、社会的な判断は大きい。例えば、近視は障碍であるとはあまり思われないが、それは眼鏡で完全に補えるからだろう。つまり、社会の工夫である特徴が問題ではなくなると、もう「障碍」とは言わないので、「障碍」はただ社会の不備を示唆すると言われる。

しかし、ここで子育てを考えれば、被害ではない状況を子供に与えることを許すしかない。それは多様性を尊重するためだ。だから、失明を被害として認めなければ、保護者に子供を失明させる権利を認めることになる。それは許すわけにはいかないだろう。実は、わざと近視にさせることも許し難いので、ここで「障碍」であるかどうかは別な話であるようだ。

障碍者の人権問題もあるので、この能力の被害を定義することで慎重に検討すべきだが、保護者の権利をこのような分野で制限しなければならないことは疑いないと私は思う。

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