養育である程度の被害を許すなら、体罰はどうなるのだろう。体罰を禁じる風潮があるが、私も賛同する。しかし、普通の体罰は、大人になっても後遺症を残すほどではない。そう考えれば、禁じるべきではないのではないかと思われる。多様性を尊重すれば、自分は到底容認できない行為も許さなければならない。
一般的に体罰を批判する根拠は二つあるようだ。一つは、大きな被害とつながる恐れがあること。もう一つは、効果はない事実。
前者は、子供を躾のために叩いたら、すぐに行動が改善されなければ、より強く叩くことは自然な発想であるので、気づかないうちに大きな傷をつける。そして、月に一回ぐらいの頻度で問題にならない体罰は、毎日になったら成長を阻止することもある。このことがあったら、体罰を許すのは危険だ。しかし、これだけで禁じることにはならない。「適切な」体罰が大人に残る後遺症を起こさないので、その「適切な」体罰を禁じることはできない。
後者が鍵になると思う。体罰で、子供の行動が本当に改善することはないという主張だ。行動を改めるより、隠すことに努めたり、周りの人に暴力を振るったりすることになると言われる。本当であれば、これで禁じる根拠ができる。
体罰の目的は躾であれば、効果は期待できないし、子供を危険に晒される。これで、禁じてもいい。体罰で子供の良い性格を作ろうとする人は、体罰でできないことがわかったら、使いたくなくなるはずだし、ある保護者がわからなくても、子供を危険から保護するために禁じても良い。
これは一般論になるだろう。ある手法には効果はないし、危険が伴う場合、子育ての手法として禁じても良いと言えよう。
しかし、ここで重要な点がある。体罰で、子供を痛ませる。保護者の目的は子供を痛ませることであれば、躾の効果はないことは関係ない。躾をそもそも目指していないからだ。前章で示唆した基準に照り合わせる必要があるが、その痛みには大きな後遺症はなければ、多様性の尊重で許さなければならないだろう。子供を痛ませてはいけないと私たちが思うが、そのような多様性も尊重しなければならない。
例えば、保護者は、「人生には苦しみは多いので、子供の頃に肉体的な苦しみに慣れさせるべきだ。寒さ等も考えられるが、それは非常に管理しにくいので、深刻な被害を与える恐れがある。打撲は、程度を管理することはできるし、痛みはすぐに治るので、慣れさせる方法として最適である」と主張すれば、確かに賛同できない子育て方針だが、人生には苦しみは多いことは否めないし、「慣れさせる」方針は辛うじて理解できる範囲にも入るだろう。到底理解できない立場も許す方針をとれば、この方針を許さない理由はすぐに思い浮かばない。
だから、「体罰は躾と関係なく、子供を痛ませるために行う」と堂々と述べる保護者に許すしかないかもしれない。
しかし、そう言う保護者は非常に少ないと思う。そう思う保護者はそもそも少ないし、思っても堂々というのは難しいだろう。他人、特に子供に痛みを感じさせることは避けるべきだが、ほとんどの人がそう思う。体罰を擁護する人の殆どは躾の手法として掲げるが、その場合禁じる根拠がある。