供物を奉るために、神様が必要となる。と思われるが、元々そうではない場合があったようだ。例えば、宮中祭祀の新嘗祭では、神座はないと言われる。供物を神宮の方向に向けて遥拝の形で供えるそうだ。それでも、一般の神社の形式には御神体があるので、その方式を前提として考える。
永続の立場から考えれば、避けるべき形の御神体がある。それは、同じ物体が長年続けて御神体として存続することである。神宮の八咫の鏡はこの形であるが、他の神社で真似しない方が良い。
なぜかというと、長期的に考えれば、事件が起きるからである。何かの事故で御神体が損傷を受けたり、破壊されたり、失われたりする。火災とか震災とか盗難などの問題を予想できる。その時点で初めて御神体を新しく作ろうとすれば、伝統に大きな溝が現れるし、必要な技能は近所にはない恐れもある。
それより、御神体を定期的に新しくすべきであると私は思う。このようにする神社も存在する。例えば、御神体をこもとする神社があるが、毎年作り直す。このような御神体が火災で無くなっても、大きな問題にならない。臨時大祭を行なって、新しいものを供えるだけである。
この立場から考えれば、御神体を神社の近所で再生可能な素材で作るべきである。
例えば、御幣を御神体とすれば、棒のための木材も紙垂のための和紙の楮も近所で育てて、加工する。葦で編んだこもとすれば、葦を育てる。神像とすれば、その材料となる樹木も彫刻の技能を持つ職人も育てなければならない。一番簡単な方法は、もしかして自然な木を御神体とする方法だろう。その場合、ただ植樹して、後継の木も確保するが、加工する必要はない。
これで、常若と永続の密接な関係が明白になろう。御神体を定期的に作り直して常若とすることで、災害で神社の信仰が途絶えないことを保証する。大規模な災害で物が全て失われたとしても、全てを作り直すのは古から神社の伝統であるので、立て直しで何も失わないとも言える。神宮と法隆寺を考えればよく分かる。神宮に大規模な火災があって、社殿のすべてが失われるとしても、臨時遷宮を行なって、前の通りに復元できる。法隆寺に同じような火災があったら、もう終わりだ。巻き返しが付かない悲惨な出来事である。
ところで、上で「古から神社の伝統」と書いたが、このような方式の導入を推薦しているのではないかと思われるだろう。確かにそうだが、永続を考える場合、現在が古になった時代にまだ続いていることを想定しなければならない。
要するに、御神体を再生可能な素材で作成して、定期的な祭りで更新する形は、神社の常若と永続のために好ましい形であると思う。