ここで、私の持論で神道の祭祀の想定について具体的に明記する。
「祭祀の想定」というのは、祭祀の形や行動が前提とする状況を指す。ただし、この状況は実際にそうであるかどうかは、別な問題とする。
想定は下記の通りとする。
神様は存在する。目に見えない存在だが、意識があるし、祭祀を感覚して、その祭祀の中の報告や依頼に応えることもできる。その上、神様はどこでも存在する訳では無い。神様は複数いるが、神様ごとの居場所は違う。神社には神様が鎮座するし、お札にもいるので、お札を神棚などに奉斎すれば、神棚にも神様がいる。一つの神棚に複数のお札を奉斎することも可能だし、一体のお札には複数の神様がいることも可能である。その上、臨時的に神様を或る場所に呼ぶことができる。その場合、神籬などのような依り代は必要となる。祭祀は、神様の前で行うべきである。神様は穢れを忌み嫌うので、清潔な状態で、清潔な場所で祭祀を行うべきである。
神様は、祭祀を原則として好む。その上、伝統的な祭祀を特に好む。神様は、いつもの通りのことが好きなのである。特に、和食や日本の伝統の芸能や工芸品などの奉納は相応しい。その一方、伝統的な枠組みの中で奉納すれば、時代とともに変更して、自分の状況に合わせることもできる。神様は寛容であるので、敬意を表そうとすれば、神様を怒らせることはない。
言葉自体には霊力がある。言霊である。だから、言葉遣いは祭祀で大変重要である。
想定は以上である。
この想定は、実際に執り行われている神道祭祀を考察して考え出した内容である。祭祀の行動を理解するための、上記のような想定は必要である。そのような事実はなければ、祭祀の内容や形式は理解しづらくなるからだ。
では、私は個人的にこの想定を信じるかどうかと聞かれたら、はっきり答えるのは難しい。
記紀神話の通りであるとは信じない。明らかにそうでは無い。日本列島は、地球のプレートの動きから生まれてきたので、伊邪那美大神から生まれてこなかった。神武天皇は少なくとも紀元前660年には存在しなかった。
つまり、想定は正しいとしても、神話が描写する神様と違う存在になると確信する。人間がものの本質を間違えることは殆どであるので、仮に神が存在するとしても、神は例外であるはずはない。
一方、まだ理解できない現象は多い。人間には意識があることは全く理解されていない。この宇宙には、人間以外の技術を持つ生き物はなさそうな理由は全く理解されていない。想定の神様は、現在の科学が把握する唯物論的な存在では無いが、そのような存在を絶対的に除外することはできない。
除外しなくても、存在すればまだ理解していないと思う。だから、はっきり言えない。存在しないかもしれない。そうなら、想定は間違っている。存在すれば、想定と違う可能性もある。(実際は、神様にとってお米はもううんざりだという可能性など。)但し、神道の祭祀を考えるために、このような想定は必要であるし、祭祀を論じる意義があるとも思うので、とりあえずこの想定して、祭祀を論じたいと思う。