混浴と日本文化

混浴の導入を裏付ける事実の一つは日本の歴史である。混浴は日本の文化である。それに、混浴を止めたのは、西洋人の批判に屈服したからだ。

幕末期の日本を訪れた西洋人の紀行文を読めば、混浴や公然の裸の習慣を驚いて指摘することは多い。キリスト教の宣教師が猛威的な批判を浴びさせることは多いが、より客観的な来日者が文化の違いを認めて、自分の驚きも認めてから、特に批判できるとは思わないとも述べる。

しかし、明治政府は主に西洋風を導入することに決定した。服装や髪型から帝国主義な方策まで幅広い分野で日本の文化を塗り替えようとした。(ところで、日本の所謂「保守派」がこの時期を理想として掲げることは不思議で堪らない。)

これは一概に悪いことだったとは言えない。西洋の医学や科学は実際に日本の当時の学問より進んでいたので、その導入で飛躍的な進化を得た。同じ様に西洋の技術も当時の日本を優れたので、汽車の導入等で社会が大きく変化したし、改善されたとも言えよう。

それでも、悪い側面もあった。地域社会の崩壊がこの時期から始まったと言えるし、公害問題がこれで深刻化し始めたし、その上日本が周辺国へ侵略しかけた。この悪い側面の一つは、日本の文化の独自性の衰弱化だった。

今でも日本の文化が西洋の文化と明らかに違うが、統一される傾向は否めないし、顕著な違いが次第に消えてきた。これ自体は良くないと私が思う。西洋文化には問題があって日本の文化が優れると言うわけではないが、世界に存在する文化の多様性を保って、強化することは良いと思う。(ここで、その理由を詳説することは割愛する。)

混浴はまだ死んでいない顕著な文化的な違いである。北米等であり得ない慣習だが、日本で歴史があるし、まだ生きている。だから、文化の多様性の推進の一環として、混浴の承認や拡散を推進すれば良いと私が思う。同じ様に、和装の普及や和室の一般化も良いと思う。洋服と和服を比べたら、どちらが良いのかとはあまり言えないが、違いは顕著であるので文化の違いを可視化するためには役に立つ。

もちろん、このように文化を強調するために悪いことの温床を用意してはいけない。和服や混浴は少なくとも善悪の間の中立的な存在であることは前提となる。和服や和室についてそうだと思うが、混浴についてより強く言えると思う。実際に、混浴の導入で社会的な利益が確保されると思う。住民の、特に女性の、脆弱面を減らす利益である。

次回、その点を論じる。

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